京都七野「内野」「北野」「平野」「上野」「紫野」「蓮台野」「点野」

 

今回は以前に行ったところ。

京都に「七野」(しちの)と呼ばれるところがあった。

「内野」「北野」「平野」「上野」「紫野」「蓮台野」「点野」今でも地名で残っているところもある。
「点野」については場所は、はっきりしない、「上野」も紫野上野町あたりかという程度、上記のそれ以外はおおよその場所はわかっている。

「点野」「上野」を「禁野」「柏野」に入れ替えて「七野」というここともあるようだ。

平安時代には貴族が楽しむ場所であったが、いつのまにか、風葬の地にもなった場所もある。

今は、京都市内に含まれ、住宅やオフィスビルそして名所がある場所となり、賑わっている。

千年近く前のことだから、変わって当然。

400年前には秀吉が京都の街を大改造した。

明治維新があり、太平洋戦争があり、

そして高度経済成長など大きな時代の変化があって、

京都の街は人の営みのなかで大きく変わったろう。

平安時代の遺跡なんか残っていない。

残っているのは、あっただろうという記録や一部地名だけ。

「内野」を除く「七野」は平安京の外にあった。

 

 

「内野」

平安京の大内裏は1227年に焼失して以降再建されることなくやがて野になった。

かつての大内裏のあたりが内野。現在千本丸太町に大極殿があったとされるところに碑

が立っている。

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(撮影平成26年7月)

【追記20220926】1227年に焼けるまでの平安時代には、もう荒涼したところになっており、不思議なことが起こる場所として、人々から怖がられたようだ。そんな中でも大内裏の復興は朝廷からは望まれ、お金のない朝廷の代わりに鎌倉幕府がなんども大内裏だけではなく、天皇が住む里内裏の復興を試みたようだ。

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「北野」

今の北野天満宮のあたり

1月4日に行ったが混んでいた。お詣りするに長い行列ができていた。

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(平成29年1月撮影)

梅の花が咲いていました。

この梅は大宰府から飛んできたものの子孫かな。

「平野」

平野神社のあたりだ。

北野天満宮に近い。

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(平成29年1月撮影)

ここは桜の名所のようだ。

西大路から平野神社に入る冬枯れの木が一面にあった。

春になれば桜が咲くのだろう。

平野神社は桜の名所らしい。

4月には「桜花祭」がある。

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(平成29年1月撮影)

平野神社と北野天満宮は近くにあるが、平野神社は人もすくなく、ゆっくりとお参りすることができた。

 

   

 

「紫野」

京都地下鉄「北山駅を降りて西に大徳寺に向かって歩いていると、「紫野」という地名がある。

西側は「紫野」。少し北に行くと「上野」があるようだ。

「大徳寺」の北西に「今宮神社」がある。

このあたり一帯は、「紫野」が付く地名が多い。

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今宮神社 平成29年5月撮影

あぶり餅のお店が両側にならんでる。「本能寺ホテル」でもこの場所がなんどか出てくる。

この神社は、かつては、八坂神社に比肩するほどの規模の祭礼を行なっていたようだ。行ったこの日も「神幸祭」で金色の丸いお神輿が境内の入り口に見えた。まるで玉のようだ。この神社別名このお神輿にちなんで「玉の輿神社」とも呼ばれている。
今年のゴールデンウィークに行くと、金色の丸い神輿がけ境内入り口に見えた。
当時の記事は以下の記事にて・

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今宮神社から少し南西の方向に船岡山がある。その西側が「蓮台野」

 

【追記20220926】他の野に比べて紫野は広い。いまでも地名が残っている。船岡山の周辺も。紫野東蓮台野と七野の名前を二つつけた地名もある。

 

 

蓮台野と「船岡山」

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平成29年5月撮影

今宮神社から少し南西の方向に船岡山がある。

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その西側が「蓮台野」のようだ。天神川と船岡山の間ぐらい。
東の鳥辺野、西の化野と並ぶ京都の三大風葬地の一つとして知られたいたようだ。
遠野で、姥捨て山を「デンデラ野」といってのは蓮台野がなまったのだとも言われているようだ。このあたりは、平安後期になると、処刑場にもなっていたようで、保元の乱の源為義が打ち首にされたのもこのあたりとのこと。1000年以上前の話になる。もう、何もない。

 

 

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