平安宮跡 案内看板を辿って大内裏の跡(内野)を巡る 朝堂院跡・大極殿跡 20230806

2023年、1200年以上も前の平安京の頃を偲ばせる遺跡はほとんどお目にかかれない。

特に応仁の乱は、京都の街を焼き尽くした。

多くの名所旧跡や由緒ある寺院は、応仁の乱で焼失した。

応仁の乱だけでなく、現在までに京都は多くの戦乱の場となった。人々営みのための変化もあっただろう。

秀吉の天正の地割があり、明治維新以降の近代化などがあって、1200年前の京の街並みは見る影もない。

かつて、大内裏があったのちに内野と呼ばれたあたりには、「ここに〇〇がありました」と言う案内が掲げられている。その案内にある地図などを見ながら、歩いてみた。

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数年前も歩いたが、再度歩いた。

頼りはGoogleマップと、そこにある案内看板。実施に碑があるところもあったが、多くは案内看板を頼りに歩いた。観光都市京都、観光客誘致で色々な案内看板建てられている。

朱雀門跡

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この先に、幅約74mの朱雀大路が続いていたのだろうか?
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朱雀大路があったあたりは、千本通りが通っている。千本通りの幅は20mから30mほどだろうか?
朱雀通りの幅は74mほどということで、この倍以上あった。
長さは千本通りの方が長い、千本通りは、北は鷹峯から南は、鳥羽街道を含め、京都競馬場がある淀まで続いている。

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天皇や海外からの使節が通ったと思われる道も、まっすぐ続くのからか、後には卒塔婆が並ぶ葬送の道になり、千本通りと呼ばれるようになったのだろう。
↓見上げると朱雀門がありこれより先が大内裏、一般人は入れなかった。朱雀大路の広さは写真の道路(千本通り)の倍以上あったと思われる。

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千本丸太町交差点案内看板地図

千本丸太町交差点の南東・南西・北西には、朝堂院跡や太極殿跡や平安宮にまつわる案内看板が設置されていた。

この交差点は、案内看板の宝庫のようなところ。情報もいっぱいある。

地図もあった。その地図の写真を撮って使ってみた。この地図の当時の配置と下に薄く今の通りも描かれて、位置関係がとても分かりやすい。

↓看板の地図少し加工した。
平安京地図 

千本丸太町交差点南東

付近案内図
千本丸太町交差点(南東)

朝堂院跡看板

千本丸太町交差点(南東)

千本丸太町交差点南東 朝堂院跡案内

 

 

千本丸太町交差点南西

平安宮跡の案内看板があった。朝堂院の簡単な説明があった。南東の朝堂院の説明より簡単なので、こちらを紹介する。

千本丸太町南西 平安宮案内看板

千本丸太町交差点南西 平安京案内

朝堂院

平安京朝堂院地図(千本丸太町交差点案内看板より)

朝堂院は八省院ともいわれ現在の国会議事堂に相当する南北470mを越す大規模な施設です。

正面の応天門を入ると左右に朝集堂があり、さらに会昌門を入ると12堂が立ち並び、それぞに役人の座が設けられ、広場には青龍楼・西には白虎楼がありました。

(千本丸太町交差点南西「平安宮」案内看板より)



豊楽院(ぶらくいん)

豊楽院(千本丸太町南西案内看板より) 豊楽院は、朝堂院の西隣にあった国家の饗宴施設で、南北400mを越す長大な施設です。天皇が出御されて新嘗祭・大嘗祭の宴や、正月慶賀・相撲節会・射礼などの国家行事がここで開催されました。
これまでの発掘調査で、正殿である豊楽殿跡とその北の清暑堂跡および両建物を繋ぐ回廊跡が見つかり、史跡指定され保存されています。
(千本丸太町交差点南西「平安宮」案内看板より)

 



   

 

千本丸太町交差点北西

太極殿跡の説明があった。

千本丸太町交差点南東 平安京

大極殿跡案内看板

大極殿(千本丸太町交差点案内看板より)平安宮で最も重要な施設である。朝堂院正殿「大極殿」は、遷都の翌年、延暦14年(795年)には、完成。天皇の即位式のほか、正月に行われる朝賀や御斎会、外国使節の謁見など、国家の重要な行事がここで執り行われた。<ーー中略-->
その後、貞観(876年)4月16日夜半の火災で焼失。元慶3年(879年)に再建(第2次)されたが、康平元年(1058年)2月26日に再び火災が発生し、応天門と左方の楼を残してい焼失。さらに延久4年(1072年)4月15日に再建(第3次)された大極殿も、安元2年(1177年)4月28日に焼失し、憩い卯は再建されなかった。

創建当初の大極殿は、東西11間、南北4間の寄棟造りの建物とみられ、基壇の大きさは推定東西59m、南北24m朱塗りの柱や組物、屋根の大棟両端には鴟尾(しび)をのせ、軒下にや棟には緑鮮やかな緑釉瓦(りょくゆうがわら)で縁取られた豪壮華麗な建物であった。
(文:千本丸太町北西案内看板「大極殿跡」案内看板より
地図:千本丸太町交差点南西「平安宮」案内看板より)

「太極殿跡」のプレート

千本丸太町交差点の北西の歩道には「太極殿跡」のプレートがあった。

千本丸太町交差点北西 太極殿跡

千本丸太町交差点北西太極殿跡

平安神宮のモデルは千本にあり!?

また、こんな案内看板もあった。平安神宮のモデルは千本にありと書かれていた。
なかなかユニークな案内看板だ。

千本丸太町交差点北西案内看板

この看板面白かった。千本通り近くの観光案内になっていた。先もう一つ別のタイトルで同じような看板があった。

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他のもあるのか、あるなら、どこにあるのか知りたくなった。建てたところがわかれば、わかるかと思った。どこにも連絡先がなかった。

歩道を使っているので、京都市に連絡すればわかるかと思った。

後日、京都市に電話してみた。電話に出た人も知らないようった。

よく見ると、看板の両端に、店の紹介があった。広告看板かと思う。色々検索すると、千本商店街の看板のようだった。このような看板が千本通り沿いに、合計8ヶ所あるようだ。

今度散歩しながら探してみようと思う。

   

 

大極殿跡(内野公園)

大極殿跡碑

大極殿跡碑がある内野公園。

内野と言う名前が出てきた。地名ではない。昔は、このあたりは、大内裏の大極殿のあったあたり。庶民は入れないところ。そして、後には京都七野のひとつに数えられ、当時の、心霊スポットともなったあたり。

内野公園 大極殿跡

大極殿碑案内看板

大極殿跡碑

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