【源氏物語ゆかりの地】平安宮跡 案内看板を辿って内裏の跡(内野)を巡る(1) 1から9 【平安京・内野】20230806 20230827【京都市上京区】

 

内裏案内看板ポイント

 地図

赤い枠が内裏のおおよその範囲。

平安京内裏内建物配置図

 

平安宮大蔵省跡・大宿直跡・聚楽第本丸西濠跡

上の地図の範囲より少し北側にあり、内裏から離れた中立売通り沿いにあった。

聚楽第の碑と並んでいたので、写真を撮ってみた。

平安宮大蔵省跡・大宿直跡・聚楽第本丸西濠跡

内裏と離れているとはいえ、大内裏の中であり、時代は違うが、聚楽第の中でもあったあたり。

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大蔵省は令制八省のひとつで、多くの倉庫があった大蔵を合わせて平安宮の北八町を占めていた。出納・収納・度量衡など職務とし、諸国から貢進される調度・銭ないし金銀以下の貢献物を、正倉などの倉庫に収め、官人給与の禄やさまざまな財源に充てられた。(説明文より抜粋)


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聚楽第本丸西濠跡碑
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①平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡

①平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡

天皇の住まいの清涼殿から最も離れており、后の身分の低さを表す。「源氏物語」で桐壺更衣の居所をここに想定していることがその証である。(説明文より抜粋)

住宅街の住宅の壁に取り付けられていた。平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡

②采女町跡

天皇の居所である内裏の西北にあった采女町は、主に天皇の食膳の給仕を職掌とした女官が伺候する所で、西隣には天皇の食膳を調理する内膳司があった。(説明文より抜粋)

采女町跡

桜宮神社の前に案内看板があった。

桜宮神社

内裏の外で、千本通近くにあったために内配置図からは外れる。

③平安宮内裏梅壺藤壺跡

③平安宮内裏梅壺藤壺跡

この場所は、行き漏らしてしまった。藤壺女御は、源氏物語でも重要な人物なのに。

またの機会に行こうと思う。

2023年9月9日に行った。

平安宮内裏梅壺藤壺跡

内裏の後宮七殿五舎の一つ。南庭(壺)に紅白の梅を植えていたので梅壺と呼ばれた。東宮(皇太子)の居所に使われたこともある。母屋や東西五間、南北二間に庇、東西は孫庇を持ち周囲は簀子がめぐっていた。

梅壺女御しては・・(略)・・『源氏物語」では弘徽殿大后、秋好中宮がいる。

梅壺の南が飛香舎。壺に藤を植えていたので藤壺と呼ばれた。母屋東西五間、南北二間。東側簀子から天皇の居所清涼殿に行くことができ、後宮の中でも弘徽殿とともに重要な位置を占めた。

『源氏物語」執筆初期の藤壺女御は、紫式部が仕えた一条天皇中宮の藤原彰子(上東門院、道長の娘)であり『源氏物語』での藤壺(桐壺帝の女御、後に中宮)が重要人物であることに影響を与えている。

光源氏は、亡き母に似ている継母の藤壺への恋慕から、里に下がっていた藤壺に逢瀬を迫り、その結果男児(冷泉帝)が誕生する。

案内看板は民家の玄関の横にあった。

③平安宮内裏梅壺藤壺跡



④平安宮 内裏東限と建春門跡・聚楽第南外濠跡

④平安宮 内裏東限と建春門跡・聚楽第南外濠跡

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松林寺境内の西域は「源氏物語」の舞台ともなった内裏の東限に当たり、内裏にある四つの門のうち東側の外郭築地設けられたのが建春門である。

左衛門府の官人が詰めていたことから、左衛門陣とも呼ばれた。

なお、後世に建てられた松林寺境内が周囲より一段低くなっているのは、安土桃山時代に築かれた聚楽第(1586年着工し1595年破却、松林東北門東に石柱あり)の南外濠に当たることによる。(説明文より抜粋)

聚楽第南外濠跡碑

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確かに、寺門をくぐると下り階段があった。これは聚楽第の南外濠があったためのようだ。

周辺の街の様子

   

 

⑤平安宮内裏昭陽舎跡

⑤平安宮内裏昭陽舎跡

内裏の後宮七殿五舎の一つで、淑景舎の南位置する。庭に梨を植えたこちから梨壺と呼ばれた。

10世紀前半に東宮敦良親王(後朱雀天皇)の居所として用いられて以後、東宮御所として使用されるようになった。

10世紀中頃、梨壺の一郭に村上天皇の命で撰和歌所が置かれ、大中臣能宣、清原元輔(清少納言の父)らによって『後撰和歌集』が編纂されたので、編纂者たちを「梨壺の五人」と呼んだ。(説明文より抜粋)

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⑥ 平安宮内裏承香殿跡

⑥ 平安宮内裏承香殿跡

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内裏の後宮七殿五舎の一つ。仁寿殿(じじゅでん)の北にあり、東西七間、南北二間の母屋に庇がめぐる。九世紀初頭の嵯峨天皇のころに創建された。

10世紀初頭の醍醐天皇の命により最初の勅撰集「古今和歌集」が紀貫之らによって編纂された。また内宴や東遊など催された。

歴史上、承香殿女御は数人いるが、なかでも村上天皇女御の徽子(きし)女王(醍醐天皇孫、斎宮女御)は歌人として知られ、『斎宮女御集』がある。彼女は『源氏物語』に登場する六条御息所のモデルといわれている。『源氏物語』では朱雀院妃(きさき)の承香殿女御が今上帝を生んでいる。(説明文より抜粋)

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⑦平安宮内裏弘徽殿跡

⑦平安宮内裏弘徽殿跡

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内裏の後宮七殿五舎の一つ。当初は北の登華殿とともに女御・更衣の共同居住区の西町にすぎなかったが、後宮の中心であった常寧殿の機能を引き継ぎ、清和・陽成天皇時代には一時的に天皇の居所ともなった。

『源氏物語』では朱雀院の花の弘徽殿女御が済、女御は、光源氏の母の桐壺更衣が帝の寵愛を受けているのを恨んで執拗な嫌がらせをして死に至らしめた。後に女御の妹の朧月夜がここに住み、光源氏と塗籠で結ばれたことが源氏の須磨隠棲の原因となった。(説明文より抜粋)

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⑧平安宮 内裏 清涼殿跡

⑧平安宮 内裏 清涼殿跡

⑥と⑦の二つと清涼殿跡の看板は近いところにあった。内裏内の配置図を見るととそれぞれが離れている。それぞれの建物があったところには、今は住宅が立ち並んでいる。自分の家がかつて清涼殿のあったところにあると思うとどんな感じだろうか?

京都御所清涼殿
京都御所清涼殿

 

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天皇の居所、母屋は東西二間、南北九間で周囲に庇、東側には孫庇を持ち、簀子がメグリ、西の後涼殿(納殿、御厨子所など)、北の飛香舎(藤壺)とは渡殿で繋がっていた。

文献上の初見は九世紀初めの嵯峨天皇の時で、後宮の拡大に伴って新設された建物と考えられるが、天皇の常住の御所となるのは宇多天皇の時からであり、庭を隔てた東の仁寿殿の機能を引き継いだ。清涼殿では叙位・除目などの政務や四方拝などの年中行事が行われた。

『源氏物語』に登場する清涼殿は、冒頭の「桐壺」で帝が愛する桐壺更衣を亡くし、悲しみのあまり食事に手を付けなかった様子が描かれ、「紅葉賀」では清涼殿の東庭で身重の藤壺女御を前に、光源氏が頭中将とともに青海波を舞う描写がある。光源氏の元服は清涼殿の東庇で行われている。(案内文より抜粋)

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⑨平安宮内裏綾綺(りょうき)殿跡

⑨平安宮内裏綾綺(りょうき)殿跡

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綾綺殿は、天皇の住まいである内裏の中心建物である仁寿殿の東にあった南北に長い建物

いわゆる内裏十七殿の一つで、宮中の舞などが行われた「年中行事絵巻」にも女楽人や六名の妓女が艶やかに舞う姿が活写されている。(案内文より抜粋)

古民家風のお店の前に案内看板がかかっていた。お店の名前も「綾綺殿」だった。

綾綺殿

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「綾綺殿」前の通り、浄福寺通り。

⑨綾綺殿跡周辺

   

 

おわりに

ポイントを事前チェックしてGoogleマップに落とし込んで、全て回るつもりだった。③平安宮内裏梅壺藤壺跡を行き漏らしてしまった。

天皇や貴族そして官僚たちの生活の営みがあった内裏・大内裏。大きな建物が敷地をたっぷり使って建っていただろう。内裏や大内裏の景色にはそのようなイメージがある。

しかし、今跡地に行ってみると、建物が密集し、人々の営みに満ち溢れる場所となっていた。

当然、当時の面影となるようなものは一切なかった。想像力を働かせてと思うが、自分の想像力では及ばなかった。

それも、いい感じだと思う。このあたりの街並みは気に入った。

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歩いてみて、内裏は広いと思ったが、それほどでもないかとも思った。

 

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