【源氏物語ゆかりの地】平安宮跡 案内看板を辿って内裏の跡(内野)を巡る(2) 10から17【平安京内野】 20230806 20230827 【京都市上京区】

源氏物語ゆかりの地 案内看板を追って平安宮跡を巡った前回の続き。

 
赤い枠が内裏のおおよその範囲。

⑩平安宮内裏宜陽殿跡

⑩平安宮内裏宜陽殿跡

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⑩平安宮内裏宜陽殿跡

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内裏紫宸殿の東にあって軒廊でつながる。南北九間、東西二間の母屋の南北と東に庇がある建物で、内裏造営当初からあったものと思われる。

母屋は累代の御物を納める納殿で、『枕草子』には、累代の楽器をほめて「それは宜陽殿の一の棚に置かれるもの」とある。『源氏物語』「若菜上」で兵部卿宮が弾いた琴は宜陽殿の御物という。

このように宜陽殿には当時の一級品が納められていた。(案内看板説明文より抜粋)

浄福寺通り沿いの駐車場の端にあった。

かつての内裏のあったあたりの道は狭く、古い家並みなどもあっていい感じだが、かつて天皇や貴族などの大きな建物があったところ内裏とは全く違った様相だろう。

 

⑪平安京内裏紫宸殿跡

⑪平安京内裏紫宸殿跡

京都御所紫宸殿

京都御所紫宸殿

紫宸殿の建物は、この建物よりもっと北にあったようだ。この辺りは、今の京都御所で言う「南庭」に当たる辺りだったかもしれない。

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内裏の正殿で公的な行事の場。中央の御張台に天皇が出御して国家の重要な儀式が執り行われた。

母屋は東西九間、南北三間で四方に庇があって周囲を簀子がめぐり、正面中央部階段の左右には桜と橘が植えてあった。

北の仁寿殿を北殿・後殿と呼ぶのに対して紫宸殿を南殿・前殿と称した。

紫宸殿では、大極殿で行われていた即位や東宮元服・朝賀・節会などハレの行事が行われ、仁寿殿はケの行事に用いられた。

『源氏物語』では東宮の元服を紫宸殿で行っており、光源氏の清涼殿に対して威儀の高さを暗示する。(案内看板説明より抜粋)

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ハレとケ

「ハレ」と「ケ(褻)」という考えがあるようだ。「ハレ」晴れ着を着たりするような非日常的なもので、「ケ」は一般的な行事のことのようだ。京都紹介のテレビ番組でこれの存在を知った。

⑫平安宮一本御書所跡 

⑫平安宮一本御書所跡 

⑬平安京内裏跡があった山中油店の建物の前にあった。山中油屋の建物は、歴史ありそうな木造の建物で、由緒ありそうだ。この碑があるところの前は、鯉が泳いでいる池があった。

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⑬平安宮内裏跡

⑬平安宮内裏跡

山中油屋という歴史ありそうなお店の前にあった。この敷地もこのお店の敷地だろう。木造の雰囲気のある建物の間にあった。

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上の写真の左端に、人が見えると思う。この人達はおそらく京都の歴史のスポットを歩いてめぐるツアーの人たちのようだった。この人が集まっている建物も、維新かなにかにゆかりのあるところのようだ。建物の前で建物の中を見ながら、ガイドの人が説明をしていた。

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延暦13年(794円)の平安京遷都とともに造営された内裏は、天皇や后たちの居住空間で平安京(大内裏)の中心的な施設。その構造は、陽明文庫蔵の「内裏図」などによると、外郭築地と内郭築地の二重構造で厳重に区画され、内郭が東西57丈(約171m)、南北72丈(約216m)、外郭築地は東西73丈(219m)、南北100丈(約300m)の規模であった。(説明看板案内文より抜粋)


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案内看板の奥には、きれいな建物と池があった。

 

 

⑭平安宮内裏承明門跡

会社のビルの駐車場の端にこの碑があった。実際にあった位置からかなり北にある感じだ。昔はこの辺りは、白い砂が一面に敷かれ、北を向くと紫宸殿があり南に承明門が見えたのだろう。

⑭平安宮内裏承明門跡

京都御所の承明門の写真を見ると、承明門は、紫宸殿の南庭に入る門のようだ。

京都御所承明門
京都御所承明門

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1984年に当地で行われた発掘調査で、江戸・桃山・平安・奈良の各時代の遺物が見つかっている。そのうち平安時代の遺構は、敷地南寄りで凝灰岩の切り石を並べた幅約80cmの東西方向と新旧遺跡が検出され、内裏正門の建礼門の内側にあった承明門の北側雨落溝跡(雨水の排水溝)と判明した。

この溝を境にして北方は、白砂が敷かれた状態で見つかり、内裏正殿である紫宸殿の前庭は白砂が敷かれていたことが明らかになった。(案内看板説明文より抜粋)

⑮平安宮内裏蔵人町屋跡

⑮平安宮内裏蔵人町屋跡

⑮平安宮内裏蔵人町屋跡

清涼殿の南西に置かれた蔵人所とその関連施設。建物の北端に蔵人頭(くろうどとう)、南西に五位蔵人、西面に六位蔵人の宿所が置かれた(『拾芥抄』)。蔵人とは元来、皇室の蔵である納殿を管理する役人であったが、嵯峨天皇は即位直後に起きた薬子の変に際して、天皇側の機密が漏れるのを防ぐために、腹心の藤原冬嗣らを蔵人頭に任じて蔵人所を設置し、天皇の側近として詔勅の伝宣、殿上での事務や天皇の私生活の互(わた)って重要職務に関わらせた。(案内看板説明文より抜粋)

ビルに階段の上がり口の横に看板があった。ロケーション的には、蔵人町屋はもう少し北にあり、この辺りには「進物所」の建物があったようだ。

⑮平安宮内裏蔵人町屋跡

すぐ近くに「平安宮内裏内郭回廊跡」がある。

⑮平安宮内裏蔵人町屋跡

   

 

⑯平安宮内裏内郭回廊跡

⑯平安宮内裏内郭回廊跡

内裏の回廊と紫宸殿の回廊は規模が違うかもしれないが、こんな感じかなと京都御所の紫宸殿の回廊の写真を思い浮かべた。

京都御所紫宸殿の回廊

京都御所紫宸殿の回廊

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天皇の居所である内裏は、内外二重の郭で囲まれ、内側を内郭回廊と呼び、築地を挟んで内と外に回廊がめぐり、衛士らが厳重に警護した。

発掘調査では、下立売通りの北南側で内裏南西内郭回廊遺の西・東辺の一部が見つかり、凝灰岩で構築された回廊基壇石や河原石を敷き並べた雨落溝を検出、さらに南西内郭回廊跡では、内裏内の水を外へ排水するための暗渠も見つかっている。

内郭回廊の基壇は、調査の結果から幅が10.5mと判明し、内裏南西にあった朝堂院の回廊(11.58m)より狭いことが分かっている。(案内看板案内文より抜粋)

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⑰平安宮内裏南限と建礼門跡

⑰平安宮内裏南限と建礼門跡

建礼門は、京都御所にもあった。

京都御所建礼門
京都御所建礼門

京都御所建礼門

 

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内裏外郭に設けられた正門で、規模は正面五間あって、内裏外郭門としては最大である。衛門府が警護し、門を入ると内裏内郭の正門である承明門があり、これを入ると南庭を隔てて紫宸殿に至る。(案内看板説明文より抜粋)

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追加:宴の松原

豊楽殿の北にあった。東西430mのの広さがあったようだ。「縁の松原」とも呼ばれたようだ。

目的は、天皇の代替わりの際の内裏の建て替えるための予備の空間として用意されたと言う説がある。

この碑はその敷地の東端にあるそうだ。密教の加持祈祷を行なう真言堂が建てられたが、平安時代にここに大規模な建物が建てられることはなかったようだ。肝試しの場所となったようだ。「大鏡」「今昔物語」などのちょっと怖い話の舞台なったようだ。

宴の松原

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photo.talk-turkey.com

 

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