今回は、2023年11月5日と2024年4月29日に菅大臣神社に行った時の写真をランダム掲載したので、光の具合とかがそれぞれ違うかもしれない。
晴の日っぽいのが2023年曇りっぽいのが2024年。
菅大臣神社(菅大臣天満宮)
2023年は、洛陽天満宮二十五社巡拝の天満宮を巡った。
巡った天満宮は紹介したが、まだ紹介していない天満宮があった。
洛陽天満宮二十五社巡拝の第一番の「菅大臣神社」。
名前は「神社」だが「天満宮」。
この神社へは2度目か?。もっと来ているような感じがするが・・・。
西洞院通りはよく歩いた。少し南にある五条天神宮には二度ほど参拝している:
祭神:菅原道真公、尼神、大巳貴命(おおあなむち‐の‐みこと)
大巳貴命は大国主命のことのようだ。
西洞院通り入り口から本殿
↓西洞院通り側入り口 ここが正面だと思う。
参道がまっすぐ本殿に続いている。
飛梅
本殿前には、「飛梅」の木があった。
下の写真は昨年11月の時の写真。梅の木も紅葉していた。
「東風吹かばにおいおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」
格子の中の牛の像
飛梅の向いには、格子に入れられた牛の像。
撫で牛でない?撫でられない?
牛の像はもうひとつあった。
西洞院入り口からまっすぐ行くと左手に手水舎があるその横に牛の像があった。
ここの牛は撫でることができるので、撫で牛かな。
「京洛八社めぐり」のひとつ。
京洛八社めぐりのコースに入っている。穴場を歩いてまわろううと言う趣旨のようだ。
護王神社や白峯神宮以外は、洛陽天満宮二十五社巡拝の神社だ。
護王神社は足の神様。京都御苑西の烏丸通り沿いにあり、菅原院天満宮のちょっと北にある神社。イノシシが象徴の神社。和気清麻呂と姉の和気広虫を祀る。
菅原道真公よりかなり前の時代の人だ。
白峯神宮は、桓武天皇の弟早良親王( 崇道天皇)を祀る。創建は明治時代。早良親王は和気清麻呂とほぼ同じ時代ころの人。
菅原道真が産湯の井戸
ここも菅原道真がつかった産湯の井戸があるという。
ここの井戸は非公開なのだろうか?見つけることができなかった。
他のページでは見せてもらったとあった。勝手に見ることが出きないことところにあるようだ。
菅原道真公が産湯を浸かったという神社は京都御苑の西にある。
前出の菅原院天満宮がある。洛陽天満宮二十五社巡拝の7番。
他にもあるが、どちらが正解かは誰もわからない。
本人もわからなかったかもしれない。
自分がうまれたころのことは自分でもわからない。
住民の通り道?
この神社は静かな神社。
敷地は、西は西洞院通り、北は仏光寺通り、南は高辻通り。
神社は地元の氏子の為のもので、いつでもお参りできるようにとだろうか閉門しないのだろう。お寺のように閉門する門や扉が見当たらない。
高辻通りから仏光寺通りへはふつうは一旦西洞院通りで行くことになるが、この神社を通ると近道になる。
地元の人はこの神社の境内を生活道路のように通っているようだ。
仏光寺側入り口。
鳥居をくぐった先の参道沿いには、民家が並んでいた。
この神社の仏光寺通り側へ出るには途中から民家の前を通る。
↓この先が仏光寺通り(2023年11月5日撮影)
反対側の高辻通り側の入り口の方は毎回見落としてしまう。
この日も、高辻通りから仏光寺通りへ抜けていく人がいた。
菅家邸址碑
仏光寺通り側の入り口の向いに、民家駐車場のゲートの柱の前に境界ギリギリに「菅家邸址」の石碑があった。
北菅大臣神社(紅梅殿)
祭神:菅原是善(すがわら の これよし) - 菅原道真の父にあたる。
洛陽天満宮二十五社巡拝の二番は北菅大臣神社だ。
菅大臣神社の場所はわかったが、二番の北菅大臣神社の場所がわからんなかったが。
菅大臣神社の北にある紅梅殿がどうも、北菅大臣神社のあたりのようだ。
鎌倉時代末期に『拾芥抄』によると菅大臣社をめぐって北野社と地元住民と論争が起こり、菅大臣社が南北両社が分離して南社は白梅殿社(菅大臣神社)と称されるようになり、北社である当社は紅梅殿の旧跡にあることから紅梅殿社と呼ばれるようになった (ウィキペディア「北菅大臣神社」より)
住宅地の真ん中にあった。
写真右手は駐車場、ゴールデンウィークの最中、自動車を丁寧に洗っていた。
菅大臣神社の駒札
祭神菅原道真公、尼神、大巳貴命
社地は約一千年前天神様すなわち菅原道公(八四五~九〇三)の紅白梅殿というお邸や、菅家廊下と称する学間所の跡で、また公誕生の地と伝えられ境内には産湯の井戸が保存されている。
仏光寺通を中心に南北二町東西一町が当時のお邸で公太宰府へ左遷に当り
東風吹かばにほひおこせよ梅の花
主なしとて春なわすれそ
と詠まれた飛梅の地である。神社は公没後間もなく創立されたが度々兵火にかっり鎌倉期には南北両社に分かれ当社女天神御所白梅殿社北社を紅梅殿社と呼んでいた。応仁の乱後慶長十九年に、菅家ゆかりの曼殊院宮良怒法親王により再興され今日に至っている。この間天明の大火元治の兵乱で再度焼失するが、現本願は天保六年(一八三五)造立の三間社流造という下鴨神社の旧殿を、明治二年に移築し、その後幣殿を建立していわゆる八棟造をなしている。
地図・洛陽天満宮二十五社巡拝