神泉苑
当地は延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとはここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ池(現・法成就池)を中心とした大庭園であった。(ウィキペディア「神泉苑」より)
↓御池通りから。
↓二条城側から
御池通側にも入口がある。こちらは、裏口のような感じだった。以前来た時は、ここを入ると料亭のようなものがあったように思う。それらしきものは見当たらなかった。
延暦13年(794年)桓武天皇が平安京を造営する際、宮中付属庭園として作られ、常に清泉が湧き出すことから、「神泉苑」と名付けられた。
境域は南北四町東西三町に及び苑内じはお祭り大池と中嶋のほか、乾臨閣や釣殿、滝池も設けられた。
祇園祭発祥地
貞観5年(863年)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。貞観11年(869年)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社の位置)に66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立てて祇園社(八坂神社)から神輿を出した。これが現在の祇園祭の元になったといわれている。なお、現在でも京都を中心に祭典時に鉾を立てる神社が幾つか存在する。この鉾は剣鉾(けんぼこ)という。池は定期的に掃除され、域内は芝原を保つことで霊験が保持されるとされていた[2]。(ウィキペディア「神泉苑」より)
法成就池
古くから存在した大池で平安遷都以降整備され歴代天皇が遊宴を行った。天長元年(824年)空海祈雨の際に勧請した善女龍王が池に住むと言わる。「法力を成就させたことから「法成就池」と名付けられた。
善女龍王社
法成就池に浮かぶようにある社。弘法大師が、祈雨の際に勧請した。
法成就池に浮かぶようにある善女龍王社。
本堂・利生殿
◎中央 聖観世音菩薩 御利益 「病気平癒」
◎右尊 不動明王 御利益 「所願成就」
◎左尊 弘法大師・快我上人 御利益 「学業成就」
このお堂は、東寺境内にあった太元帥堂を、 神泉苑に移築したものです。
(神泉苑ホームページより
法成就殿にある「善女龍王社」が本殿かと思った。こちらが本堂だった。
こちらは、仏教と神道が混在しているようだ。お参りするときに、神道か仏教のどちらか迷った。神仏習合の典型。明治時代の、神仏分離の時はどうだったのだろうか?
平安時代と今の地図
千本丸太町にある平安京大内裏の地図と平安京の地図を合体させてみた。
この地図を見ると、神泉苑がどれだけ広かったかが伺える。
二条城が大内裏と神泉苑の敷地にあるというのがよくわかる。
↓当時の神泉苑の範囲は、平安京の地図をトレースしたもの。位置関係を確認するために、千本丸太町にある平安京の大内裏の地図看板を合わせてみた。
こんな看板地図もあった。
地図