- 京都の通りの唄はいつごろから唄われ始めたのだろう?
- 「まる」は春日小路
- 「たけ」は大炊御門前大路
- 「えびす」は冷泉小路
- 「に」は二条大路
- 「おし」は押小路
- 「おいけ」は三条坊門小路
- 番外:内野通 当時の心霊スポットへの道?西京・嵯峨野への道。
京都の東西の通りの唄と南北の唄を、そらんじて言えるようになった。
京都を歩く時、この唄は役にたつ。
京都を歩く時は、東西に歩くことが多く、東西の通りと交差する南北の通りの名前を覚えていると、今どのあたりで目的地までどれくらいかがよくわかる。
「まるたけえびす・・」の東西の唄より、南北の通りの唄の方が役に立つ。
南北の唄
てらごこふやとみやなぎさかいたかあいひがしくるまやちょうからすりょうがえむろころもしんまちかまんざにしおがわあぶらさめがえほりかわのみずよしやいのぐろおおみやまつひぐらしにちえこういんじょうふくせんぼんはてはにしじん。
有名なのは、東西の唄。
アニメ「名探偵コナン」の映画でも謎解きに使われているようだ。
覚えた京都の東西の通りの唄は以下の唄。
覚えた唄は、十条がないので、古いバージョンかもしれない。
まるたけえびすにおしおいけあねさんろっかくたこにしきしあやぶったかまつまんごじょうせったちゃらちゃらうおのたなろくじょうしっちょうとおりすぎはっちょうこえればとうじみちくじょうおおじでととどめさす。
東西の歌の後半は、「さんてつ」や「じゅうじょう」が入るバージョンもある。
「ごじょう」までは大方同じだと思う。
京都の通りの唄はいつごろから唄われ始めたのだろう?
●平安京に、「じゅうじょう(十条」)はない。
十条通りができたのは、近世。近世は明治・大正・昭和。
京都の通りの歌は、時代に合わせて変化してきたのだろうか。
●五条通りは、豊臣秀吉により変更された。
かつての五条通りは、今の松原通りにあたる。
今の五条通りは六条坊門小路だった。
「まつ(松原通り・旧五条大路)・まん(万寿寺通り)・ごじょう(五条)」となるのは、豊臣秀吉以降。
●秀吉の京都の街の大改造により、南北の通り唄にある通りのいくつかが、豊臣秀吉に天正の地割りで誕生している。
●応仁の乱によって京都の街は焼け、上京と下京にわかれ、安全のためにそれぞれ「構(かまえ)」作った。その上京と下京は今のように隣接したかんじではなく、距離があった。
上京の「構(かまえ)」の南の端は今の中立売通り(正親小路)・上長者町(土御門大路)。
下京の「構(かまえ)」の北の端は二条通り。
この間は、室町通りあたり以外は田園風景が広がっていたようだ。
この間には、「京都の東西の唄」の丸太町通り・竹屋町通り・夷川通りがある。
ちなみこのころの天皇の里内裏は、土御門里内裏だった。
上京のエリアにぎりぎりに入れたようだ。
そして、下京の「構(かまえ)」の南の端は五条通。
だから京都の東西の通りの唄の五条以南がいろいろなバージョンがあるのかもしれない。
「せったちゃらちゃらうおのたなろくじょう」は特にややっこしい。
「うおのたな=ろくじょう」とも言われている。
実際に行ってみると、「うおのたな」は六条通とほぼ同じだった。
今の京都のカタチが決まったのも豊臣秀吉の安土桃山時代以降・江戸時代以降。
それからすると、
通りの唄が馴染んでいる京都の街や京都の風習・雰囲気は、江戸時代に醸し出されたものだろう。
京都の通りの唄のそれぞれの通りも平安時代には、名前が違った。
「京都の東西の通りの唄」の通りの多くは平安京の時から名前が変わっている。
通りの唄がうたわれるようになったのは、江戸時代以降だろう。
「まる」は春日小路
今は「丸太町通り」だから「まる」。
平安時代は小路だったので、
小路の幅員は4丈約12m。
今の丸太町通りは、概ね片側の広いみち。幅員は22mほどありそうだ。
江戸時代、丸太の材木屋が多かったと言うところがあった。それに因んだのだろう。
「たけ」は大炊御門前大路
今は「竹屋町通り」だから「たけ」。
大路なので幅員10丈約30m。今の竹屋町通りはそれほど広くない。センターラインがないので、5.5m未満の幅員の道路。
2017年5月撮影
大炊御門前通りは、二条大路より北にあり、鴨川の方から行くと、大内裏の郁芳門(いくほうもん)に行き当たる。郁芳門を入ってすぐ北に大炊寮(おおいりょう/諸国からの米穀の収納、諸司への食料の供給を司った役所)があり、郁芳門が「大炊御門」とも呼ばれたことに由来するようだ。
竹屋町通りとよばれるのは、この通りと堀川通りの交差点あたりに竹屋が多くあったことからそう呼ばれるようになったようだ。これも豊臣秀吉の頃。
「えびす」は冷泉小路
今は、「夷川通り」だから「えびす」。
小路なので幅員は3丈約12m
今はセンターラインのない、幅員が5.5m未満の道。
この通りは、鴨川を越えると「冷泉通り」になり、一旦広くなり、平安神宮の応天門の前を通り、終点は、哲学の道の南端・琵琶湖疏水松ヶ崎浄水場若王子取水池の北側に行き当たる。
下の写真は終点あたり。この先が冷泉通りの終点になる。この先若王子橋を渡り熊野若王子神社がある。
若王子橋は哲学の道の南端。南隣には南禅寺の水路閣を通った疏水の松ヶ崎浄水場若王子貯水池があり、そこからの疏水の流れは、北へ白川疏水となり高野川をくぐり、北大路通り近くの賀茂川をくぐり、紫明通を通り。堀川通りへ、そして、鴨川に続く。
夷川通りは鴨川を越えて冷泉通りとなる。通りはしばらく、鴨川に向かってる流れる疏水沿いを通る。蹴上からの流れが南禅寺前から西へ鴨川に向けて流れる疏水。その疏水には「夷川発電所」がある。今でも現役だ。放水口あたりは野趣があり、発電所前の溜まりではのどかな雰囲気がある。
平安神宮手前で疏水と分かれ、平安神宮応天門の前を通り一路東へ。
終点の哲学の道の南端へ向かう。
「に」は二条大路
今は「二条通り」なので「に」。
大路だがもっと広く幅員は17丈約51m。路面だけでは43.8mもあったようだ。
大内裏の南、朱雀門の前を通る平安京の目抜通りにあたる。相当広い。他の大路より広かった。
京都御苑にある道は30mほどあり、それより広い通り。
京都御苑・京都御所の横の道
今は、センターラインのない、幅員が5.5m未満の道。
寺町通りで南にクランクして、センターラインと歩道のある広い道になり、鴨川を渡り、鹿ヶ谷通りまで続く。
西は、二条城前の堀川通りで終わる。
二条城の石垣が見える。センターラインがない道。
寺町通りを過ぎると道は広くなる。
木屋町通りの交差点。木屋町通りはここで終点。
二条大橋
「おし」は押小路
今は「押小路通り」なので「おし」。
小路なので幅員は3丈約12m。
この通りも、センターラインのない道。
平安京から名前が変わっていない。
「おいけ」は三条坊門小路
今は「御池通り」なので「おいけ」。
小路なので幅員は3丈約12m。
現在の京都の東西の幹線。
並木のある広い歩道があり、おしゃれなお店もある。
いい通りだ。
鴨川を超えて川端通りが終点。
御池通りの名前の由来は神泉苑を由来とするする説がある。
御池通の名称は、この通りが神泉苑の池の傍を通ることに由来するという説が現在の通説となっているが、(ウィキペディア「御池通り」より)
神泉苑を由来としない説もある。
神泉苑を由来とする説の方が、自然な気がする。
御池通りは二条城の前を通る堀川通りを西へ過ぎると道幅も狭くなり、神泉苑の南を通り、千本通りのJR二条駅前で北にずれて、押小路通りと接しさらに西続き、終点は東西線「太秦天神川」駅の少し三条通りと交差するまで。三条通りには「嵐電天神川」駅がある。
↓神泉苑大池(2016年12月24日撮影)
番外:内野通 当時の心霊スポットへの道?西京・嵯峨野への道。
今は存在しない通り。
内野はかつて大内裏があったあたり。
1227年の鎌倉時代初期に大内裏の火災があって以来、再建さることはなかった。
鎌倉時代、大内裏のあったあたりは、荒れ果て、誰でも行けいるようになっていた。
荒れ果てた景色は、今で言う心霊スポットでもあったようだ。
その内野を通る道があったようだ。
「内野通り」
後白河法皇の好きな「今様」にもでくる。
この「内野通り」はまた、西京や嵯峨野への道でもあった。
今のどの通りあたりにあるのか?
内野あたりを通り嵯峨野まで行っている道といえば、春日小路(丸町通り)かなと、想像してみた。
丸太町通りは大内裏の大極殿の前あたりを通る。
丸太町通りは、大覚寺統の名前にもある「大覚寺」近くを起点に、東山の一番東の端を通る鹿ヶ谷通りまで続く長い通り。これからすると「内野通り」は、丸太町通りかとも思えてくる。
「内野通り」は、それほど歴史上に重要ではないかもしれないが、当時の人々にとっては大切な道があったかもしれない道。
そんな道を、勝手に、今の地図に重ねて合わせて想像したりすると面白い。