- 淀駅
- 千本通りの南の起点・六叉路の交差点「納所」交差点
- 千本通りと言っても鳥羽街道
- 千本通り(鳥羽街道)を歩く
- 戊辰役東軍戦死者埋骨地
- 大きな木が2本・・
- 羽束師橋。二階建ての橋
- 鳥羽大石
- なぜこのあたりを「鳥羽」という?
- 再び千本通り
- 千本赤池交差点。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が陣を敷いた
千本通り
北は北区鷹峯から南は洛中を離れ、伏見区納所町の旧京阪国道納所交差点まで延びている (淀の近隣地域で、京都競馬場や京阪電気鉄道の淀駅が近くにある)。 (ウィキペディア「千本通」より)
淀駅
千本通りの南の起点は、京都競馬場の最寄り駅京阪「淀」駅近くにある。
京都競馬場は、駅でてすぐにあるようだ。
駅から競馬場のスクリーンが見えた。
千本通りの南の起点・六叉路の交差点「納所」交差点
千本通りの起点は、京阪電車「淀」駅より桂川方面に少し歩いて、旧京阪国道の「納所」交差点にある。
淀川となる三川合流点はまだ少し先、このあたりはまだ、桂川。
淀城跡が近くにある。
↓「納所」交差点、右に見える通りが千本通り。
納所交差点に入って来る道は、数えると6つあった。
千本通りと言っても鳥羽街道
千本通りは、もともとの平安京の朱雀大路のあたりを通っていると言われている。
道幅は、朱雀大路に比べるもなく狭いと思う。
朱雀大路の道幅はおおよ84mあったとされている。
千本通りで一番広いところでも、道幅20~30m程度だと思う。
↓京都御苑の京都御所横の道約30mほどある。
しかし、このあたりの千本通りは「鳥羽街道」。
九条の羅城門跡までは旧朱雀大路と同じルート。そこから、「淀」駅近くの南の起点まで「鳥羽街道」。
千本通りは、長い京都の南北の通りで京都の南北の通りの唄にも出てくる。
「・・・じょふくせんぼんはてはにしじん」
なぜ千本と言うか?
平安京の北の船岡山西麓8蓮台野あたり)は葬送地だったと言われており、そこへ続く道が今の千本通り、その通りに沿って卒塔婆がたくさん並んでいたからそう呼ばれたそうだ。
『日蔵夢記』で、日蔵が地獄へおちた醍醐天皇と出会い「自分を地獄の責め苦から救い出すために千本の卒塔婆を立ててほしい」と、訴えられたので卒塔婆千本立てたことに由来する。(ウィキペディア「千本通」より)
おそらく、内野を通り抜けただろう。
当時の心霊スポットを通る道でもあったかも、今なら人気スポットだ。
当時の夜は、今では想像できないほど、真っ暗だったはず。昼は、ずっと野原が広がり、風に乗って死臭が漂っていたのではないかと思う。
それが伸びて伸びて、鷹峯から淀までの長い通りになった。
京都の街は、今のように清潔な町ではなかったと思う。
時代によっては、疫病や飢饉があって、町には亡くなった人が放置されて、死臭漂う街だっただろう。そして、下水施設が整っていない時代、糞尿の匂いがする街だったのではないかと思う。
今の京都はそんなこともガラスケースに入れて、無害無臭にして、空想の世界に誘いでくれる。
千本通り(鳥羽街道)を歩く
舗装はされているが、なんとなく街道筋の雰囲気がある。
すぐに橋があった。「五番ノ橋」。
後から知ったが、アーチ橋で、立派な橋のようだ。
明治45年(1912年)6月と刻まれていた。橋のできた年月だろう。110年前。
桂川の土手が見えて来た。
しばらく川沿いを通る。
土手にゆずの木か黄色い柑橘の実がなってる木があった。その木で実を収穫していた。少し乱雑で実が道に転がっていた。
戊辰役東軍戦死者埋骨地
鳥羽伏見の戦いのあった鳥羽離宮はまだまだ先だが、幕府(東軍)側が大阪に戻る途中で埋葬したのだようだ。
大きな木が2本・・
なぜかこの二本の木は気になった。クスノキかな。土手に半端ない存在感があった。
川の土手の反対は畑が広がる。
水仙が咲いていた。
川沿いだったり家並みだったり繰り返す。
しばらく、家並みが続く。
飛鳥農事共同作業所
川の土手の横にあるのからか?街道沿いの住土地少し高くなっているようだ。上の写真の共同作業所の横の道は下り坂だった。
この家、少し違和感があった。街道沿いの土地の高さ、もともとは、この家の土地の高さだったのかもしれない。桂川の氾濫で徐々にかさ上げされてきたのだろうか?
歩き始めてすぐのところ(納所交差点近く)の電柱にここまで浸水しますという看板があった。
羽束師橋。二階建ての橋
羽束師橋で、一旦千本通りを離れた。
この橋から、桂川と鴨川の合流点を見ることができる。それを見に行った。
この橋は、歩車分離と言うか、一階は人と原付まで、二階は自動車と言う設定のようだ。上は京都外環状線。途中でカーブする橋だった。
しばらく、鴨川沿いを歩いた。
時々、千本通りが川沿いを通った。
右は千本通り
鳥羽大石
なぜあったのかわからない。近隣の住民が引き上げたようだ。
この辺りは、鳥羽港があった。
一説に、二条城の築城の際運ばれた石が、運ぶ際に落としたのか。大きな石が三つ並んであった。
後に回ると、落書きされていた。
いつの時代も、人の気持ちがわからない人がいるもんだ。
なぜこのあたりを「鳥羽」という?
鳥羽といえば、志摩半島にある鳥羽を思い浮かべる。
鳥羽の大石のあるあたりも「下鳥羽〇〇」という町にある。
調べると、港のあるところの地名で「鳥羽」といわれるところがあるようだ。
志摩半島の「鳥羽」も遠州灘と熊野灘の間にあって、良港だったそうだ。
港というと海に面しているかというと、鳥羽の大石のあるあたりも港だった。
鴨川を船で上り下りする船の港だった。
「港」は「泊」ともいえる。
「泊」から「鳥羽」になったという。
それ以外に、港というと「波止場」「渡場」。それが「鳥羽」になったのかと。
「トバ」は,「賭場」であり、それが漢字で「戸羽」や「鳥羽」に書き換え可能性がある。人が神様に祈って、左右を決するのが博打の始まり。つまり神事でもあった。
などいろいろ話が載っていた。
名前の由来は、正直なところはっきりした話はなさそうだ。
どちらかというと、港の「波止場」の「トバ」が「鳥羽」になったというのが、いいように思う。
鳥羽天皇は、その「鳥羽」に離宮を作ったから、「鳥羽」の地に因んで、鳥羽天皇と追号されたのではないだろうか?
「鳥羽」が先か「鳥羽天皇」が先かというと、「鳥羽」先だと考えた方がいいかと思う。鳥羽天皇は、存命中は、天皇であって、鳥羽天皇と呼ばれなかったはず。
再び千本通り
しばらく歩いて、千本通りに戻った。
どこを歩いても、街道っぽい。
千本赤池交差点。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が陣を敷いた
鳥羽伏見に戦いでは、この辺りに、幕府軍が陣を敷いたそうだ。この辺も鳥羽離宮の敷地だった。
↓さらに進んで、千本赤池交差点の方を振り向いた。赤信号のあたりが「千本赤池交差点」。そのあたりに幕府軍が陣を敷いた。
写真を撮ったのは、鳥羽離宮の跡とされる運動場の近く、おそらくこの辺りより少し先あたりに明治政府軍が陣を敷いたのかもしれない。
これより先に、小枝橋があり、そのあたりは、鳥羽伏見の戦い勃発の地と紹介されていた。
2018年4月29日撮影
このあと、鳥羽離宮跡・城南宮へと行った。