出水通りとは変わった名前。出水と言う名前は京都御苑で見たことがある。
千本丸太町交差点北西角にあった看板。
その③と④は「出水七不思議」だった。
出水通は、京都市の東西の通りの一つである。烏丸通から西へ、途中京都府庁で中断して七本松通までである。(ウィキペディア「出水通」より)
出水の小川京都御苑
京都御苑の「浮出絵付駒札」にも「出水の小川」があった。
この出水小川から近い京都御苑の出入り口が、烏丸通り側にある「出水口」だった。出水通りは出水口より少し北から西に伸びていた。出水通りの言われは、「出水の小川」に由来するのだろう。
出水七不思議 千本商店街イラスト看板
その3「出水七不思議前編」で紹介されたお寺
観音寺
光清寺
華光寺 イラスト看板では違った感じだった。
その4「出水七不思議後編」で紹介されたお寺
地福寺
極楽寺
玉蔵寺
五劫院
出水の七不思議で紹介されているのはお寺。ぞれぞれのお寺の不思議なことを紹介していた。
宴の松原
それらのお寺があるのは、千本通りの西側。
「宴の松原」のあたり。
「宴の松原」と聞くと、宴会がよく開かれた、きれない松原のある庭園だったかなと思える。
しかし、どうも違うようだ。諸説あるようだが、平安時代からずっと大内裏内にあるような大規模な建物が建てられたことがないエリアのようだ。
東西250m南北430mの広さがあった。おそらく当時の内裏とほぼ同じ広さで、天皇の代替わりの時に、ここじ同じ規模で新しい天皇の内裏を造るの想定されていたのではないかと言う説がある。
伊勢神宮の遷宮のイメージだろう。
宴の松原は結果、荒れ放題になったのではと思う。
大内裏の跡ではあるが、京都七野のひとつ内野と呼ばれた頃には、葬送地への道だった千本通り合間って、当時の心霊スポットだったのかも。
千本通りより西の寺町
今では、そのエリアにお寺がいっぱい建っている。
お寺が建ったのは、時代がずいぶん下ってからだと思う。江戸時代ぐらいか?
宴の松原のあたり。千本通りの西側には、紹介されているお寺以外にも沢山のお寺がある。
観音寺
泣く山門
観音寺は出水通りの終わりの七本松通り沿いにあった。
泣く門
後述の案内文では、一枚板とあったが、隙間があって、何枚も板があるようだったが・・どうなのだろうか
この門は、
「伏見桃山城の牢獄の門をここに移したといわれる。」
「この門前で罪人を百回叩いて放免したことから『百たたきの門』とよばれている」
泣き門と呼ばれるのは
「人のうめき声が聞こえ門扉に取りついた怨霊の声という噂も」
お寺の前に案内看板があった。
観音寺
慈眼山と号し浄土宗に属する。
天明の京都火災により建物や記録が焼失して正確な寺の歴史は残っていないようだ。
伝えによれば、山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したものと言われ、罪人を釈放するに当たってこの門の前で百回たたいた伝えられ「百たたきの門」と呼ばれた。
また、門の扉は楠の一枚でできており「出水の七不思議」の一つの数えられている。
境内の観音堂の本尊は運慶の弟子安阿弥の造顕といわれ、堀川一条にあって1390年に疫癘(えきれい)の時死屍を捨てるものが多く、山名重氏は鎮疫を祈念し、霊験により死屍を蘇生させた。
延喜18年(918年)に没した三善清行の葬送の時、その子浄蔵が仏神に祈って蘇生させたという、返り橋のは戻り橋と呼ばれ、観音堂の信仰を集めて千人堂と称されるになった。慶長の頃に現地に移され、洛陽観音二十七番に数えられている。境内の「よなき地蔵」も有名である。(観音寺案内看板より)
洛陽観音二十七番碑
光清寺
うかれ猫。
三味線上達祈願の信仰もある
弁天堂に牡丹と蝶と猫の絵馬があり、三味線の音につられて絵の猫が抜け出して女性に化けて踊ったという。
当寺は寛文九年(1669年)伏見宮貞致親王(さだゆきしんのう)が御生母慈眼院殿心知光清尼公の菩提のため杲(こう)山和尚を開山として創立された。
(略)
辨天堂の南側にかゝげられている絵馬は俗に「うかれ猫」と云い出水の七不思議の一つに数えられている
本堂前の庭の「心和の庭」、玄関前庭「心の庭」は重森三玲により作庭された。
光清寺案内文より抜粋)
辨天堂。「うかれ猫」の絵馬がかかっていた。
この絵馬の下にあった説明文に「浮かれ猫」言われや、千本通りの当時の様子が書かれてていた。
当時、ここより北の地域に、愛宕山や北野天満宮へ参拝する人を目当てにした茶店などが多くあったようだ。茶店から三味線の音などが響いてきたとか、人通りが増えてガス灯のある千本通りとこの寺がある寺と畑しかないところが夜になるとその明暗のコントラストなどが、色々な要因で、それから「うかれ猫」の話が生まれたとか。
心の庭
本堂前なのでこれが「心の庭」だろうか?
玄関前の心和の庭は見なかった。らしきものがあったか覚えていない。
いずれにしても、きれいに整備された境内と庭だった。
境内
華光寺
イラスト看板では難し感じだった。草冠の「卒」の字に下のもう一本線があった。
池もあったりしてキレイに整備された庭だった。
地福寺
小石で耳が治る
真言宗醍醐寺派の寺。弘仁年間(810-824)に創建され、享保年間に、道空が現在地に移転した。
ここは入れなかった。
極楽寺
世にも珍しい二つの潜り戸。
潜り戸は通常ひとつ、ここ山門には潜り戸がふたつあり「両小袖門」ともいわれる。
なぜ、二つあるのかはわからないようだ。
このお寺は山門くぐると駐車場だった。今は、境内を駐車場にしているところが多い。
駐車場の奥に本堂があった。
玉蔵寺
消えた応挙の幽霊
臨済宗妙心寺派で天保元年(1830年)大観文殊が開山
三幅対の軸があった掛け軸のうち円山応挙の「遊女の絵」が幽霊に見えるため、「幽霊画」とされた、しかし数十年前から掛け軸自体が行方不明になったそうだ。
五劫院
寝釈迦
くぐり戸(小袖門)の上にある框の木目がまるで釈迦が西枕で横たわっているように見えるようだ。
入れないと思い、前で写真を撮っただけだったが、入らず見ることでいるとは、看板の案内を十分読んでいなかった。
写真の框あたりを拡大して、色合いを調整してみると、これかと思うものがぼんやり見えた。
これかどうかはわからないが。