石像寺(しゃくぞうじ)
地元では通称の釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)で知られている。
寺伝では空海(弘法大師)により弘仁10年(819年)に真言宗寺院として創建されたという[1]。 その後衰微していたが、鎌倉時代に俊乗坊重源により、浄土宗の寺院に改められて再興された。そして、藤原家隆が入寺したことから後に山号は藤原家隆から名をとって家隆山とした。 その後、再び衰退したが慶長19年(1614年)に西蓮社厳誉上人が再興したという[2]。 当寺の本尊は空海が唐から持ち帰ったという石に自ら刻んだとする地蔵菩薩である。この地蔵は苦しみを抜き取るということから苦抜(くぬき)地蔵と呼ばれ、それがなまって室町時代には釘抜地蔵と呼ばれるようになった[1]。 享保15年(1730年)の西陣焼けで焼失するが、再建された。(ウィキペディア「石像寺」より)
石像寺は千本今出川を過ぎて、数ブロック北に、千本通り沿いにある。入り口は広くなく、気づかず通り過ぎてしまうかもしれない。
地元に親しまれているお寺?
地元の人の集いの場?のようなところかと思えた。
行ったときは、先に海外の人が数人そしてもう一人日本人が入っていた。境内の中には、そこそこ人がいた。海外の人はすぐに帰った。
社務所の前に、休憩所の東屋があった。冷水茶のサーバーが置かれていた。誰でも飲んでいい。
そこでは、数人の年配の女性が腰を掛けて話をしていた。
最終的には、年配の女性ん二人がずっと話をしていた。お寺の人とも馴染みのようだった。お寺の人の話では、近所の人が来て、本堂の前の広場で子ど達を遊ばせていることもあるようだ。
こうして気軽にやってきて、ふるまいのお茶を飲みながら思う存分話ができる所があるのはいいことだと思う。お寺もそれを認めているようだ。
本堂の裏の地蔵様
井戸。この井戸は江戸時代からあるようだ。
御朱印をもらうのは簡単ではない。
御朱印をもらうために社務所に入った。社務所で御朱印をお願いしますというと。
まず、年の数(数え年)だけ本堂を回ってきてくださいとのことだった。
ちょっと信じられなかったが、ただ単にスタンプ集めのように御朱印を集めるというのではなく
御朱印は
「お寺へ参拝した人々が自分で写したお経文を納め、祈願したしるとして、御印を頂いたもので、お納経という由来があります。仏様に代わる御印ですので、単なるスタンプと同じよに扱われぬように心がけましょう」と引接寺の御朱印を網羅時についていた「御朱印のいわれ」にあった。
確かに御朱印は、単なるスタンプ集めではないと思う。
御朱印をもうらのに、本殿の周りを年の数(数え年)は、前述の納経に近い意味があると思う。
本殿は、上の写真にあるように、1周30mほど。本殿正面で、拝んで、正面に裏にある地蔵様と本殿建物の裏にある参拝所で拝んで年の数だけ回ってみた。
数を数えるには、回る前に、竹の小さ棒を一回で持てるだけ20本や30本手に取って、一周回る度に一本そこに戻して、回った数を数えた。
御朱印のために回るのもいい、何か願い事を唱えながらでも、恨み言を言いながらでもいいようだ。「くそばばぁ」と言いながら回っていた人がいたようだ。
足の悪い人は、毎日10周して、何日かかけて、1000周した人もいるようだ。
回っていくうちに、回ることが自然で気持ちででき、心地よい感じに思えてきた。もともと回ることに苦痛を感じてはいなかった。自分の都市なので30分ぐらいかかった。
回っている間、前述の東屋で年配の女性の話が声がずっと聞こえていた。
一種のお百度参りみないなもとお寺の人は、言っていた。
周り方、お寺の人が丁寧に教えてくれた。その人とは少し話をすることができた。
いろいろ説明してくれたが、多くを忘れてしまった。
お寺の裏の墓地の中に1200年から湧いている井戸があると教えてくれた。
社務所の裏の細い道をとおり、裏の墓地にでて、墓地の中を少し歩くとあった。
1200年前からの井戸
裏の墓地の中にある井戸。1200前からずっと水が湧いているそうだ。
大きな柄杓(ひしゃく)おいていあった。
柄杓(ひしゃく)で水を汲んでみた。かなり下までおろさないと水に当たらなかった。お寺の人の話では、多いときは、ぎりぎりまで水が上がってくくることがあるようだ。
その他の写真
人が誰もいなくなった境内。
一時的に誰もいなくなった。参拝するとは、数は少ないがポツンポツンとやってきてた。
本堂。本堂の周りを年の数だけ回った。
東屋・その後ろに社務所がある。
山門
境内から千本通り(山門の境内側)
山門までの参道にある掲示。
石像寺前にあった案内。