【京都の街の変遷】里内裏の閑院内裏と大内裏の内裏(大内)どっちが好まれた?

 

天皇は大内裏の中にある内裏「大内」に住んでいた。

f:id:m3785com:20220922191732j:image平安宮内裏内郭回廊跡

当時の建物は、木造でよく火災にあったようだ。

原因は色々あっただろう。

その度に天皇は、京の街中の貴族の家を里内裏として使った。

里内裏の広さは、半町か1町、大きい時で2町ぐらいだろうか?
一町の広さは14,400㎡(一町120mとして)

大内裏の内裏の広さは、
65,700㎡(300m×219m・南北1,000丈×東西73丈)
約4.5町(1町120mとして計算)

本来の内裏からすると、里内裏はとても小さく感じる。

狭くても、里内裏が良かったのだろう。

里内裏に好んで住んだ。
大内裏の内裏があっても、里内裏に住んだ。
大内裏の内裏は、仮のはずの里内裏(「大内」)が使えない時や花見や大嘗祭の時に使ったようだ。

天皇は、平安時代末期から鎌倉時代中頃までは、大内より閑院内裏が好んで住まれた。

そして、閑院内裏は「大内」の代わりになるように造られた。

 

閑院内裏

閑院殿は、白河上皇の御所そして堀河天皇(後白河法王の祖父)の内裏として使われ、以降、高倉天皇の時から後白河法皇の子孫が愛用していたようだ。天皇は大内に住まなかった。「大内」は、鎌倉時代の初めには、花見の名所となってしまったようだ。

そして1208年に閑院殿が焼けた。土御門天皇(高倉天皇の孫)の頃、閑院殿を大内の変わりの内裏ではなく、本内裏とするための建暦二年(1212年)に幕府の全面負担で再建工事が始まった。(承久の乱以前)

完成するまでの間は、当時の天皇土御門天皇は仕方なく「大内」で暮らしたそうだ。

本当は、それだけ閑院内裏には代々の天皇が住み慣れていたのだろうか。

1212年の再建で、紫宸殿、清涼殿、宜陽殿、校書殿(きょうしょでん)、日華門、月華門、紺朗(こんろう)、弓場殿(ゆばどの)など、大内(大内裏の内裏)で主要な建物を、寸法を縮小するなどして閑院内裏に再現したそうだ。

これによって、今まで、根本内裏は、大内から閑院殿になったとも言える。

南北二町(約240m)、東西一町(約120m)で、二町。

東は西洞院通り、西は油小路、北は二条通り、南は押小路通り(御池通り。地図では)。
※南北二町であれば、御池通(三条坊門小路)あたりまでのはずだが、書籍にこのように書いてあった。

↓閑院殿の石碑が、押小路通りと小川通りの交差点近くにあった。ちょうどこのあたりが閑院殿の中心ぐらいになると思われる。

f:id:m3785com:20220920190324j:image

油小路と二条通りの交差点から

f:id:m3785com:20220920190236j:image

上の写真は違うが、閑院殿はこんな感じの広さだったのだろうかと思う。

閑院内裏あとあたり

この閑院内裏も1249年焼け落ち、財政難の幕府御家人や農民に負担を強いて1251年に完成した。しかし、8年後の1259年の火災で焼け落ちた。

原因は放火。下級役人が儀式の日、儀式のためのお金を着服したお金の穴埋めができないので、儀式を延期するために放火したそうだ。

その後、閑院内裏は以降再建されることはなかった。

それより前に、大内裏火災にあったも再建することはなかった。
内裏の再建には幕府が費用を捻出していたが、財政的に大内裏や閑院内裏の再建する費用を捻出することができなくなったようだ。

   

 

大内裏(大内)の最後

大内裏は承久に乱で焼け落ち、乱の後、後堀川天皇(高倉天皇の孫)のもと細々と再建が進められたようだが、1227年近くの火事の延焼により工事途中で焼け落ち、以降再建される頃はなかった。

大内裏の後は、京都七野のひとつ「内野」になる。

平安中期には、すでに「内野」と呼ばれていたようで。不思議な現象が起きると言うことで、今で言う心霊スポットのようなところになっていたのかもしれない。 だから、天皇たちは、心霊スポットのようなところより、街中に住みたく、閑院内裏をよく使ったのかもしれない。

京都御所

里内裏は、東の方に移り、富小路や高倉通あたりにたてられた。

そして、1331年に、今の京都御所のあたりにあった土御門東洞院内裏を、光厳天皇が里内裏にして以来、ずっと内裏として使われ、明治維新まで550年、内裏として使われることになる。

途中の足利義満により広さが倍増されて、一町の広さになった。以降何度も火災にあい、そして、1853年に内裏が焼失し、1855年に土御門東洞院の内裏を敷地を元に今の京都御所が建てられた。そして1866年に今の敷地が確定したようだ。

1867年は明治維新。

 

承久の乱と南北朝

承久乱で、負けるはずのない朝廷側が負けた。

以降、天皇を決めるキングメーカーは幕府になった。

以降、幕府に逆らおうとする天皇はひとりを除いていなかった。

そのひとりの登場の素地が、承久の乱のしばらくして、根付き始めた。

後堀河天皇の後、四条天皇。四条天皇は夭逝し。その後の後嵯峨天皇。

後嵯峨天皇の子供の後深草天皇と亀山天皇が流れでの諍いが生じた始める。

持統院党と大覚寺統に別れ、その系統がかわるがわる天皇になることになった。

大覚寺統の後醍醐天皇が、幕府に逆らい、後鳥羽上皇の朝廷を承久の乱で負かした鎌倉幕府を倒した。そして、次に生まれる室町幕府とも反目することとなった。

後醍醐天皇の側は南朝と呼ばれ、足利尊氏率いる室町幕府側になった持明院派は北朝となり、天皇家の正当をめぐって争った。南北朝時代ともいわれる。

足利尊氏の孫の足利義満の朝廷により、南北時代は終わった。

これにより、さらに天皇の立場は、より弱くなったように思う。

 

   

 

 

参考

ja.wikipedia.org