- 京都御所入口(清所門)
- 音声ガイドアプリ
- 諸大夫の間
- 新御車寄せ
- 建礼門
- 紫宸殿
- 清涼殿(せいりょうでん)
- 小御所(こごしょ)
- 蹴鞠の庭
- 御学問所(手前)・小御所(奥)
- 御常御殿
- 散歩の忘れ物一
- 小御所会議について
- 慶応3年は1867年?1867年?
京都御所は通年公開していて、休止日以外は、見学できる。
休止日:月曜日(祝日の場合は翌日),年末年始(12月28日から1月4日),行事等の実施のため,支障のある日。
入館できるのは9時から15時20分まで、16時に退出しないといけない。
休止日は、月曜日とあった。月火と連休の日もあるので、もし、行かれるのであれば、以下のアドレスを確認してください。この時点では、10月から来年1月までのカレンダーが掲載されています。また、それ以外の観覧についての事項も掲載されています。
https://sankan.kunaicho.go.jp/info/20160720_01.html
京都御所入口(清所門)
京都御所に入るには、まず、手荷物検査を受けなければならない。検査といってもカバンやリュックの中を見せるだけだった。入口の前には警官が立って警備をしていた、近くにはパトカーが停っていた。ちょっと物々しい感じがした。
音声ガイドアプリ
手荷物検査が終わって、順路に沿ってみて回ることになる。その前に休憩所によってみた。
長椅子にすわり、周りを見渡すと・・・
音声ガイドアプリとフリーWi-Fiの案内があった。
Wi-Fiは、公衆Wi-Fiなので、セキュリティの保護がされていませんなどの表示がでる。気にせず使った。
そして、アプリをインストールした。
パンフレットは日本語、英語、中国語の3種類用意してある。
パンフレット見ながらでも良いが、いちいち広げて読むのは手間だ。屋外だと文字も読みにくい。
音声アプリだと、位置情報を使って、ポイントに来ると説明が流れるようになっていた。
このアプリのおかげで、京都御所を有意義に回ることができた。
諸大夫の間
京都御所に来た人の控えの間。
右が諸大夫の間、左は新御車寄の裏
諸大夫の間は三つあり奥から襖の絵に合わせて「虎の間」「鶴の間」「桜の間」がある。奥の方が身分が上になる。
「虎の間」と「鶴の間」は御車寄から上がる。武家や大名は一番端の靴脱ぎ場から昇殿して上がる。そこが「桜の間」。
↓桜の間の人はここから上がる。
新御車寄せ
大正4年(1915年)大正天皇即位の礼が紫宸殿で行われるに際し、馬車による行幸に対する玄関として作られた。
右に見える屋根が紫宸殿。
建礼門
京都御所の南向きにある正門。即位の礼など紫宸殿で行われると儀式の時に開かられた。
紫宸殿
紫宸殿は、内裏の正殿。天皇元服や立太子礼、譲国の儀、節会などの儀式が行われ、のちには即位礼の舞台となった。「南殿」や「前殿」、古くは「紫震殿」とも。(ウィキペディア「紫宸殿」より)
元々は、天皇の私的な在所で内裏の殿舎のひとつだった。儀式は大内裏に大極殿で行われた。大極殿では衰退し、里内裏では、元々内裏の外にあった大極殿は再建されなかった。紫宸殿は里内裏でも再建され、即位に礼などの儀式は紫宸殿で行われるとようになった。
建礼門と向いにある紫宸殿の門、承明門
紫宸殿前は内庭(ないてい)
左近の桜
右近の橘
紫宸殿に承明門の横の門を通り内庭に入ることができた。
紫宸殿の裏から
清涼殿(せいりょうでん)
平安時代の中期(10世紀)ころから天皇の日常住まいとして使われた。源氏物語や枕草子などの王朝文化の舞台になった。1855年に平安時代に建築様式を用いて再建された。寝殿造風になっている。
1590年に御常御殿に住まいが移ってからは主に儀式の際に使用された。
清涼殿でには、天皇が休んだするところかと思っていた。建物の中央に畳式になっている所があるようだ(自分の背の高さでは見えなかった)。そこが昼御座(ひのおまし)。天皇の日常御座。その後に御帳台があり、そこは天皇が休憩するところ。下の写真の幕が張られたところだろう。
屏風の前に白くなっているところがあるようだ(自分の背の高さでは見えなかった)。
石灰壇(いしばいだん)という。毎朝天皇は、伊勢神宮や賢所など遠く離れた所に向かい祈りをささげたようだ。白い漆喰が地面に続いていることから、地降りて行うことと同じとされた。
上記説明多くは、音声アプリの説明。
小御所(こごしょ)
鎌倉時代以降に建てられるようになった御殿。将軍や大名との面会や数々の儀式使われた。
幕末1867年、明治天皇臨席のもと、新政府の政治家が集まり、将軍慶喜の将軍職剥奪、領地返上を決定した小御所会議が行われた。
1955年(昭和29年)、鴨川の花火大会の火の粉で焼失、1958年(昭和33年)復元された。
上記説明多くは、音声アプリの説明。
蹴鞠の庭
小御所と御学問所の間にある。
御学問所(手前)・小御所(奥)
御常御殿
天皇が日常暮らした御殿。
散歩の忘れ物一
欲張りで歩いて、色々なところに行きたいと思うのと、下調べせずに行くのあって、行くのや見るのを忘れることがよくある。
音声アプリを入れて京都御所を見学して、御常御所を見て、御三間などを見て、ひととおり見学したと思い、入った清所門に向かった。
しかし、これで全部ではなかった。
まだ門より北に、
皇后宮常御殿
若宮御殿
姫宮御殿
飛香殿があった。
見逃した。
また、京都御所に来た時には、見学したい。
小御所会議について
小御所会議は、大政奉還ののち徳川慶喜の将軍職剥奪と領地返還を求めために、明治天皇臨席のもと行われた。
この場で「王政復古」の号令が発せられた。摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)ほか旧来の朝廷諸官職が廃止され、総裁、議定(ぎじょう)、参与の三職が設けられ、そして、徳川慶喜の職の剥奪と領地返還が協議された。この会議では、島津忠義や山内豊信の諸藩士も参加した。諸藩士が反対する中、岩倉具視や大久保利通の討幕派の裏工作で、徳川慶喜の官位剥奪と領地返還が決まった。その幕府・公義体制派の巻き返しがあり、戊辰戦争へと進んでいく。
慶応3年は1867年?1867年?
小御所会議おこなれたのはこコトバンクでは1867年(慶応3)12月9日と書かれており、ウィキペディアでは、慶応3年12月9日(1868年1月3日)と書かれていた。
慶応3年は、1867年1868年か。
当時は、元号で記録されていて、グレゴリオ歴で記録はしなかっただろう。慶応3年12月9日は、1867年であって1868年であってもいいのかと思う。
明治5年に行われた改暦により、明治5年12月2日の翌日が明治6年(1873年)1月1日になった。逆算していくと慶応3年12月9日は1868年1月3日に当たると言う事だろう。
慶応3年は、1年の大部分が1867年なので、慶応3年=1867年の考えでいくと、1868年になる。
ちなみに、ユリウス歴だと、明治5年12月3日は、1872年12月20日になる。