日曜日、大阪医療センターにお見舞いに行った帰りに、
上町筋を挟んで大阪医療センターの向かいにある難波宮跡に行った。
何度か行ったことがある。
最近、何かの機会で、
難波宮の写真を見てとても変わった印象を持った。
どんな風に変わったのか確認に行った。


下のような看板はなかったと思う。

見ためあまり変わったところはなかった。
写真でみたようなところもなかった。
大極殿跡も以前と変わりなさそう。

変わったと言えば、案内の看板が増えたことだ。

ひとつの案内看板を見ると、
難波宮は前期と後期があるとあった。
前に行った時もその説明があったと思うが、
今のようにはっきりとした図面はなかった。

夏だからか緑が豊になったような感じがする。

広い空き地のようで、大阪市の官庁街の近くにこれほどの空間があるのはとてもいい。
気持ちがいい。

2019年3月2日に訪れた。
当時はこんな感じの図面だった。今はしっかりとカラフルに描かれている。
大極殿からの様子
大極殿跡では、スケボーの練習をしている人が数組いた。
一組の近くを通りながら写真を撮った。
コトバなどを交わすことはなかったが、
いい印象か悪い印象かわからないが、
意思の疎通があったような雰囲気になった。
大極殿跡からパノラマ写真。360度は撮れなかった。西以降がかけている。

東

南側 スケボーの練習をしている人が小さく写っていた。

西側

北、阪神高速が低くなって、道路の向こうが見える。
何かがある。前に来た時にはなかった。

遺構を残すために高速道路も気を遣った。
北は中央大通りと阪神高速東大阪線が通っている。
阪神高速道路は御堂筋あたりでは船場センター街の上を通っている。
そして難波宮跡あたりが近くなると低くなり、高架ではなくなる。
横を通る中央大通りと同じ高さにになり、過ぎると再び高架になる。



難波宮の遺跡を残すためのようだ。

難波宮跡公園内裏地区
以前は、阪神高速と中央大通りの北には何もなかったように思う。
入り口にあったイラスト入りの看板の航空写真を見ると、ビルが建っているようだ。

ビルなどがなくなり、何かが出来ている。

2019年3月2日撮影
この時には、もうビルなどはなかった。
そこに行くことにした。
信号を渡っていくと、南の難波宮跡とは別世界。

回転すしの大紀水産などお店が入る建物が出来ていた。

そして、その前には芝生公園が広がっていた。
この辺りが内裏があったエリアだろう。
内裏の回廊があったところは色付きのレンガ道となっていた。



オレンジ色のレンガの道は前期
灰色のレンガの道が後期の遺構
大阪城も見える



広い空間はとてもいい。
内宮正殿


公園を出て歩道から


内宮から太極殿跡

案内看板にあった当時の様子。内裏の方から。


かつては、難波宮跡も内裏のあったところビルが建っていたようだ。

難波宮について
前期については、乙巳の変の後に遷都している。
ウィキペディアには
乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し[4]、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されている[5]。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった(『日本書紀』巻第廿六による)。(ウィキペディア「難波宮」より)
後期は聖武天皇ころ。
聖武天皇は遷都をよくした。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えて度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した[注釈 6]。
(ウィキペディア「聖武天皇」より)


