難波宮跡 難波宮跡公園内裏地区が新たにできていた 【大阪市中央区】 20250907

 

日曜日、大阪医療センターにお見舞いに行った帰りに、

上町筋を挟んで大阪医療センターの向かいにある難波宮跡に行った。

何度か行ったことがある。

 

photo.talk-turkey.com

 

最近、何かの機会で、

難波宮の写真を見てとても変わった印象を持った。

どんな風に変わったのか確認に行った。

下のような看板はなかったと思う。

見ためあまり変わったところはなかった。

写真でみたようなところもなかった。

大極殿跡も以前と変わりなさそう。

変わったと言えば、案内の看板が増えたことだ。

ひとつの案内看板を見ると、

難波宮は前期と後期があるとあった。

前に行った時もその説明があったと思うが、

今のようにはっきりとした図面はなかった。

夏だからか緑が豊になったような感じがする。

広い空き地のようで、大阪市の官庁街の近くにこれほどの空間があるのはとてもいい。

気持ちがいい。



2019年3月2日に訪れた。

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当時はこんな感じの図面だった。今はしっかりとカラフルに描かれている。

大極殿からの様子

大極殿跡では、スケボーの練習をしている人が数組いた。

一組の近くを通りながら写真を撮った。

コトバなどを交わすことはなかったが、

いい印象か悪い印象かわからないが、

意思の疎通があったような雰囲気になった。

 

大極殿跡からパノラマ写真。360度は撮れなかった。西以降がかけている。

 

南側 スケボーの練習をしている人が小さく写っていた。

西側

北、阪神高速が低くなって、道路の向こうが見える。

何かがある。前に来た時にはなかった。

遺構を残すために高速道路も気を遣った。

北は中央大通りと阪神高速東大阪線が通っている。

阪神高速道路は御堂筋あたりでは船場センター街の上を通っている。

そして難波宮跡あたりが近くなると低くなり、高架ではなくなる。

横を通る中央大通りと同じ高さにになり、過ぎると再び高架になる。

難波宮の遺跡を残すためのようだ。

 難波宮跡公園内裏地区

以前は、阪神高速と中央大通りの北には何もなかったように思う。

入り口にあったイラスト入りの看板の航空写真を見ると、ビルが建っているようだ。

ビルなどがなくなり、何かが出来ている。

2019年3月2日撮影

この時には、もうビルなどはなかった。

 

そこに行くことにした。

信号を渡っていくと、南の難波宮跡とは別世界。

回転すしの大紀水産などお店が入る建物が出来ていた。

そして、その前には芝生公園が広がっていた。

この辺りが内裏があったエリアだろう。

内裏の回廊があったところは色付きのレンガ道となっていた。

オレンジ色のレンガの道は前期

灰色のレンガの道が後期の遺構

大阪城も見える

広い空間はとてもいい。

内宮正殿

公園を出て歩道から

内宮から太極殿跡

案内看板にあった当時の様子。内裏の方から。

かつては、難波宮跡も内裏のあったところビルが建っていたようだ。

難波宮について

前期については、乙巳の変の後に遷都している。

ウィキペディアには

 乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し[4]、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されている[5]。

孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった(『日本書紀』巻第廿六による)。(ウィキペディア「難波宮」より)

 

後期は聖武天皇ころ。

聖武天皇は遷都をよくした。

 

天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えて度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した[注釈 6]。

(ウィキペディア「聖武天皇」より)