難波宮跡(なにわのみやあと) 2019(31)0302

難波宮跡(なにわのみやあと)

大阪城公園の南、中央大通りをはさんで「難波宮跡」ある。

「難波宮跡」は今は広い公園になっている。週末の午後、行くと、数組の家族連れや仲間連れが思い思いに春の陽気を楽しんでいるようで、くつろいだ雰囲気が漂っていた。遠くに大阪城天守閣が見える。

難波宮は、前期と後期がある。前期は大化の改新が行われたころの652年完成した。今は穏やかな雰囲気漂うところとなっているが、当時は、大化改新という一種血なまぐさい政争で多くの人が粛清された時、ピリピリした緊張感あったのだろう。後期はそれから70年程度後。政治中心は血生臭さがあるモノだ。

しかし、その「難波みうあ」も長くどこにあったかわからなかったようだ。ただこの周辺で奈良時代のモノと思われるモノが発見されていたようだ。しかし、太平洋戦争が終わるまで、この辺りは軍隊の敷地で調査ができなかった。

↓歩兵第八連隊跡碑

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戦後、山根徳太郎という人が調査を始めた。大阪城周辺は大阪の中心当時はビルなども建って調査は困難したそうだ。

難波宮の敷地は、中央大通りを越えて、大阪城公園の敷地の南端のところまである。今、難波宮跡といわれているのは、太極殿から南の部分だ。内裏は中央大通のあたり阪神高速東大阪線したあたりになる。

調査を続ける山根氏だが、なかなか成果が出ず周囲は冷たい目で見たそうだ。それでも調査を続けて「難波宮」を見つけてた。山根氏の努力のおかげで、今ここに「難波宮」の存在を確認することができる。

   

 

難波宮跡公園は。かつて太極殿があったところに太極殿の土台を模した石の台がある。

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難波の宮



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公園は、広々と、のんびり出来そうな。

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上町台地

難波宮は上町台地あっただろうと思われていたのだと思う。上町台地は大阪城の少し北、渡辺津の近くの天満橋あたりから南へと続く。この辺り旧淀川寝屋川が流れている。そして、住吉大社の東の方にある苅田あたり大和川手前ぐらいまであるようだ。

大阪市のほどんが海の時も、上町台地のあたりは陸地だったはず。

大阪の街を西から行くと、谷町筋の一本西の大大きな筋の松屋町筋より東へ谷町筋大阪城へ行く道は、緩い上り坂となっている。地形アプリで調べると、この坂で5mほど上がる。大阪城のあたりでは、ここより10mほど上がる。

↓松屋町筋から谷町筋(大阪城)の方角。

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大阪城の正面虎口である追手口(大手口)に続く道として大手通がある。かつては栄たようだ。その通りを大阪城に向けて歩いた。

松屋町筋超えて坂を登り切ったあとしばらくして振り返ると、低い所に松屋町筋の交差点の信号が見えた。

遠くに見える赤信号あたりが松屋町筋。
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歩いて行くと大阪城が見えてくる。

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谷町筋を渡るとしばらくすると「大阪国際がんセンター」があり、そして、大阪府庁舎が見えてくると上町筋に行き当たる。

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上町筋を渡ると大阪城公園、大手門が見えてくる。

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大阪城は、その上町台地の北の端にあり、北は淀川や寝屋川が流れている。また、昔は上町台地の近くまで海だったというのもあり、湿地帯であり、また当時は周辺は川が縦横に走っていたようだ。

 大阪城を攻めるには上町台地が続く南からしかなかったかもしれない。大阪の陣も主戦場は大阪城の南側だった。真田丸も大阪城の南あった。主戦場は大阪城の南側だったようだ。大阪城から南の上町台地には四天王寺もある。大阪の高級住宅地の帝塚山もある。歴史あるところだ。

大阪城の前は石山本願寺があり、前述の通り周辺は川や湿地帯が広がり攻めにくい天然の要塞だった。

織田信長も相当手を焼いた。経緯はあるが今は西本願寺と東本願寺に移っている。

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大阪城界隈は人が天下を求めて行き来したところとも言える。血生臭さのあるところだったかもしれない。

今は市民の憩いの場となり、四季折々の花を楽しむことができる。