散歩と写真(京都・大阪・・)

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京都散歩(2)上立売通りを歩く 相国寺 相国寺の七重大塔跡を 20210925



   

 

相国寺

相国とえば、中国の漢の時代の廷臣の最高職。今でいうなら首相に類似しているそうだ。そんな名前が付いた寺。相国寺。

↓上立売通りから見た法堂

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相国寺
臨済宗相国寺派の大本山の寺院[1]。山号は萬年山(まんねんざん)。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。

足利三代将軍義光が、花御所の隣に一大禅宗伽藍の建立を発願して建てられた。今は、南ある同志社大学に押し込まれているような。烏丸通側から見ると、同志社大学の一部のように思える。

創建の時は、このあたりに行基によって創建された出雲寺や法然上人が住んでいた加茂野の釈迦堂などがあったが、創建に当たって、移動させられたようだ。

↓烏丸通り側入り口横は同志社大学。入り口は烏丸通から奥まったところにある。
入り口前は平日だと学生達がたむろしていて、大学の一部のように思えた。

相国寺 烏丸通り側入り口

 その名称は、春屋妙葩が開基である足利義満が唐名では「相国」と呼ばれる職である左大臣に任じられていたことから相国寺を推し、また、義堂周信が明には五山制度の始まりの寺院である大相国寺があり、それにあやかって相国寺を推したことから「相国寺」と名付けられた。

烏丸通に出ると、同社大学が烏丸通を挟んである。このあたりには、かつては足利義光が政務をとっていた花御所があったところ。

同志社大学 かつて花御所があったところ

相国寺は、何度も全焼したり廃止の危機の憂き目にあっている。

・伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)火災で全焼。
・応永32年(1425年)に再び火災で全焼し寛正4年(1463年)に復興。
・応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地とされたため、そのあおりを受けて全焼した(相国寺の戦い)
・天文20年(1551年)に細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて全焼した(相国寺の戦い)
・現存する法堂は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼によって建立されたものである。
・元和6年(1620年)に火災があった。
・天明8年(1788年)の天明の大火で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。
・現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間(1804年 - 1818年)に再建されたものである。(ウィキペディア「相国寺」より)

明治になっても、明治政府の廃仏毀釈で多くの塔頭が統合は廃止され、困窮したようだ。

1889年(明治22年)3月に伊藤若冲が描いた動植綵絵を明治天皇へ献納し金1万円が下賜された。これにより、1万8千坪の敷地の維持ができた。
それでも塔頭が建っていた跡地の多くは失われ、その跡地には同志社大学、京都府立鴨沂高等学校、京都市立烏丸中学校などが建てられた。(ウィキペディア「相国寺」より)

 

   

 

相国寺特別拝観

相国寺

行ったとき「特別拝観」で法堂や建物の中を見て回ることができた。

拝観料は800円。

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法堂(はっとう)

まず、最初に法堂。今の相国寺では一番古い建物。慶長10年(1605年)、徳川家康の命により豊臣秀頼の寄進して、5回目の再建された。正面28.70m、側面22.80m

この記事の最初の写真は、法堂を上立売通りから撮ったもの。

法堂の天井には、龍の絵があった。蟠龍図。狩野光信筆。

屋内は撮影禁止だったので、龍の写真は撮れなかった。

あと見学できるのは、方丈と開山堂だった。

↓拝観入口

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↓この建物は庫裏(くり)「香積院」ここは見学できなかった。
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方丈の庭「表方丈庭園」

白砂を敷き枯山水庭園。禅の境地「無」を表現している。
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庭園の向こうに見えるのは「法堂」
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方丈の横は緑豊かな庭。
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裏方丈庭園 

表方丈庭園とは逆で、谷川を思わせるように、手前を掘り下げ反対には築山を築き、市中にあって、深山幽谷の雰囲気を味わえるように設計されている。
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開山堂前庭

手前が白砂を敷き、奥部が軽くなだらかな苔地築山で、奇岩を配し樹木が植えられている。このような二様の庭があるのは禅寺でめずらしいようだ。
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相国寺の七重塔はどこあった?

相国寺といえば、七重の塔。室町時代足利義満の頃、高さ36丈(108m)にもなる七重塔が建てられた。落雷で焼失した。

相国寺の法堂などの建物は、応仁の乱などの戦火で焼失した。今、一番古い建物が法堂。江戸時代初めのもの。先述のようにほとんどの建物が焼失して、法堂は江戸時代初期で豊臣秀頼により建立されたもの。それ以外19世紀にたてられた建物だ。

 

七重大塔

応永6年(1399)、三代将軍足利義満が高さ36丈(約109メートル)と伝えられる七重の塔を相国寺東南の地に建立。義満の重厄の年であり、また父義詮の33回忌にあたる年でもあった。(相国寺ホームページより)

京都タワー131mに迫る高さだ。東寺の五重塔(54.8m)より高い。600年以上前にこのような大きな塔を作るとは、天皇の立場も狙ったという足利義満の権力の強さがしのばれる。

七重の大塔は二回再建されていた。

相国寺のホームページを見ていると、七重大塔は二回再建されたようだ。

・初代:応永6年に建てれ、4年後の応永十年に落雷で焼け落ちた。
相国寺のホームページで、相国寺の近くにある「塔之段」という地名があり、そこにあったのではないかと言われている塔はこの初代の塔だろう。
・二代目:その後、北山に移して再建されたが、応永二十三年(1416年に炎上してなくなったようだ。場所は当時義満が住んでいた金閣寺内のようだ。最近、金閣寺の調査で分かってきた。高さも初代と同じぐらいだったそうだ。ただ、完成前に焼け落ちたようだ。
・三代目:その後相国寺の南東の旧地にもどされて再建されたが、文明十ニ年(1470年)に三度目の火災で焼け落ちた。再建したの足利義持。足利義満の子。

南東の旧地に戻されたということなので、三代目の塔も「塔之段」に再建されたのだろ。

七重大塔跡はどこかと聞いたら・・・

相国寺の特別拝観の係の人に七重の塔があった場所を聞くと、七重の塔は相国寺の方丈から見える鐘楼の少し南にあったと教えてくれた。
事前に下調べして、行けば聞かなくても大丈夫だったが、前知識なしで、散歩で立ち寄っただけだった。

事前知識があれば、相国寺に来る前に、相国寺の七重大塔があったとされる「塔之段町」に立ち寄っていただろう。聞くようなことはしなかった。

教えてもらったのは

方丈から見える鐘楼のちょっと南。

そこに行ってみた。

↓方丈から見えた鐘楼。写真右に法堂や方丈がある。方丈からは南西の方向になる。
この鐘楼は「天響楼(てんきょうろう)」という。平成20年夏に建てられた。

相国寺 鐘楼 七重の塔はこの少し南にあったといわれた。

相国寺の七重の塔はこの方向にあったのだろうか?と思いつつ、シャッターをきった。

見えるのは経堂。
↓鐘楼のあたりから南の方向
相国寺 七重の塔があったと思わる場所

このあたりにあるのは、経堂、後水尾天皇御髪歯塚、鎮守の八幡様。

経堂

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後水尾天皇御髪歯塚

後水尾天皇御髪歯塚

後水尾天皇御髪歯塚

鎮守 八幡宮

 

相国寺 経堂

教えてもらったところにも塔はあった。

調べてみると、どうも教えてもらったあたりには、三重の塔があったようだ。後水尾天皇の御髪歯塚のあたり。後水尾天皇三重塔があった。
「上皇の再興塔は法堂の西南に、高さ約30m、三層造りで建立、上皇落飾の時の髪と歯を上層の柱心に収納する。」と「日本の塔婆」というページにあった。

 

 地図

 

 

参照

相国寺 - Wikipedia

相国寺七重大塔 | 関連資料 | 資料室 | 臨済宗相国寺派

京都市も「可能性否定できない」 「北山大塔」土台と推定、金閣寺庭園内の中世遺構 | 京都民報Web

https://www.kyoto-arc.or.jp/News/kenkyu/2018-04.pdf

相国寺




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