★標はダム施設
余呉湖データ
湖面積:最大197k㎡
修水面積:35.4k㎡
最大深度:13.5m
平均深度:7.4m
最大貯水量:1470万立方メートル
有効貯水量:1090万立方メートル
周囲長:6.45km
海抜高度:133.8m(常時満水位)
南北の長さ:2.3km
東西の長さ:1.2km
(浸水曝気装置説明板より)
5km距離標
歩き出してすぐ5kmに距離標があった。
出発地点から半時計周りに回って5kmの地点。あと5km歩けば、いいのかと思ったが。
一周6.8kmあるが、5kmということは、1.8kmも歩いたということか?
そんなに歩いていないが・・・
古そうな看板があった。この先にあると言うことか?
昔は観光でにぎわったのだろうかと思う。
岩崎山大岩・賤ヶ岳岩崎山登り口
5kmを過ぎて、歩き出して少しすると、岩崎山大岩があり、そこに、賤ヶ岳岩崎山登り口がある。登山道を上がると尾根伝いの賤ケ岳への道があるようだ。この上に賤ケ岳の戦いで亡くなった中川清秀の墓と砦がある。
中川清秀
翌天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、大岩山砦を右近、三好信吉らと守っている時、柴田勝家軍の佐久間盛政の攻撃に遭う。右近は撤退を進言したが清秀は引き下がる訳にはいかん、と6,000の佐久間軍と3,000で戦い、圧倒的兵力の前で奮戦虚しく戦死した。享年42。墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。(ウィキペディア「中川清秀」より)
上の看板相当古い。国民宿舎余呉湖荘が載っている。今はもうない。
登り口・岩崎山砦跡
高山知重右近大夫の砦跡であるが、高山右近は戦わずして木之本に退いた所。
今は砦跡らしいものは何ものこっていないが、岩崎山のくぬぎの森として残されている。
こんな道を上がっていく。
岩崎山大岩案内看板
岩崎山は湖岸に大岩が突き出し、賤ケ岳合戦には高山重友の砦があった。古代には近くに智者寺・蓮法寺があり、これと並び岩崎の大岩として人々から崇敬されていたが道路拡張取除かれた。この岩は当時を偲ぶなごりである。
湖岸の緑地
対岸の集落。
県道余呉線沿い緑地帯
公園のような雰囲気がある。
川並放水路ゲート施設★★
余呉湖のダム機能として、導水路があり、余呉湖から水を逃す機能もある。
導水路は、歩き始めたときに通った道沿いにあった。
他に、標高差約50mあるびわ湖からもポンプでくみ上げることできるようになっているようだ。
放水はこのゲート。このゲートを通じて余呉川に水を放水する。かつては余呉湖からの水の出口は高田川があったようだが、今はこの放水ゲートだけのようだ。
放水ゲートを調整することで、灌漑や洪水の対策なるのだろう。
余呉湖が、湖北の豊かな田園風景をもたらしていると言える。
4km距離標
放水ゲートを少しいくと4kmの距離標がある。
休憩所
4kmの距離標を過ぎて、少し歩くとトイレなどがある休憩所がある。
尾の呂が浜
賤ヶ岳の戦いの発端
休憩所の湖側に、「尾の呂が浜」という看板があった。
天正十一年四月二十日の早朝の雨やみの中で馬を洗っていた中川清秀方の馬屋係二人が突然現れた佐久間盛政の兵に切り殺され、賤ケ岳の合戦の火ぶたが切られた所
中部北陸自然歩道
この道は、中部北陸自然歩道になっている。
「この歩道は新潟県の山北町から滋賀県の大津市までの美しい自然や文化財を結ぶ延長4,000キロメートルの道です。」尾の呂が浜の看板の横にある看板に書いてあった。
この付近の木は、夏が終わりの頃だというのに、葉がついていない。
しかし、高原の野原の雰囲気があった。
山口誓子の歌碑
歌碑があった。山口誓子のようだ。黒くなっていて文字がよく読めなかった。
サワオグルマ群生地
3km距離標
この手前に何か建物があったかのか、苔むしたコンクリート石積みがあった。
鏡湖
ほぼ南の端ぐらいにきた。
このあたりから見える湖は、今までとは少し違う。
湖の半分が鏡のように向こうの山を写し出していた。余呉湖は鏡湖とも言われるそうだ。
この日は天気が良くなく、綺麗に見えないが、青空が広がっていれば綺麗だっただろう。
賤ヶ岳登山道と国民宿舎跡
ここからの賤ケ岳の登山道は、岩崎山の登り口の道より広くて整備されているようだ。
ここから1.5kmで賤ケ岳山頂にいけるようだ。
このあたりは賤ケ岳の山のふもと近くにある。
国民宿舎跡地?
登り口の横に更地があった。地図を見るとおそらくここが国民宿舎のあったところだろう。
国民宿舎のあったあたりの湖の景色は、良さそうだ。木の椅子などもあった。
余呉湖の湖面は穏やかで鏡湖といわれることもある。
国民宿舎から少し離れたところに、生垣で整備されたエリアがあった。なんのためか?昔の名残か?
深層曝気装置送気機械室★★
さらに歩いて、2km距離標の手前に余呉湖に空気を送り込むシステムの機械室がった。
余呉湖の周回を歩いていると、山からの水が周回道を越えて(潜って)余呉湖に流れ込んでいるのを何か所か見かけた。その流れは、弱く、湖の端で吸い込まれるように消えてしまうようだった。大きな水の流れとして川のような水の流れは見かけなかった。
川が流れ込むことで湖の中が攪拌されて空気は湖に行き渡る助けをしているはず。
鏡湖とも言われる余呉湖は、それだけ湖面が静かということで、水の流れが少ないということだろう。そういった水の流れが少ないためか、余呉湖ダムとしての機能のためか、湖に空気を送る為のシステムが余呉湖にはある。
余呉湖は初夏から秋にかけては、水に溶けている酸素量が減るようで、深いところではほとんどなくなるとのこと、そうなるとリンなどアオサの原因に物質が溶け出すそうだ。それを防止するために考えられたそうだ。
余呉湖は冬になると雪が降るようだ。日本海からの風も強いと思う。強い風が吹けば湖面が押されて、湖面に水の流れができ、湖の水が拡販され多くの酸素が湖の中に吸収されるはず。風弱くなる春から秋までは、湖の水が拡販されることがないため、湖の水の酸素量がへるのだろうかと、考えてみた。
↓湖の真ん中にあるのがその装置だと思われる。
2km距離標
近くには、トイレ?があった。
↓見えるのは、余呉駅のある集落あたり。
周回道はこんな感じで、緑地帯がなくなっている。
あじさい園
あじさいの花のシーズンは終わっているので、花はなかった。
1km距離標
このあたりになると、開けてきて集落が近くなってきたのがわかる。
集落が近くなってきた。
0km距離・集落
距離標は集落の北の端にある。
↓集落入り口あたり、JR余呉駅へは右へ2.2kmと書いてあった。
この案内には国民宿舎への距離がまだ残っていた。
集落の水田の稲も黄色く色づき始めていた。黄色い絨毯のようだった。
そして、稲刈りも始まっていた。
雨が降りはじめ、徐々に強くなってきた。雨に降られながら早足で歩いた。
ふと先ほどまで歩いていたあたりを見ると、雨が強く降っているのか靄っていた。
余呉湖ビジターセンター
余呉湖には羽衣伝説があるようだ。
6km距離標付近
ビジターセンーターから雨の中あるいて歩いて駅を目指した。もう頭の中に早く駅に着きたいという気持ちで、6kmの距離標は確認しなかった。
余呉湖を一周した。周回道路は周辺は整備されていて遊歩道のようになっていた。芝生のある緑地帯もあり、大げさかもしれないが、芝生を歩いていると高原の草原を歩いているような気分になった。また、ところどころに、にぎわった頃の名残と思えるような看板なども点在していて、にぎわった頃が偲ばれた。
川並の集落では、のきいろく染まり始めた水田の風景も見飽きない風景だった。川並の集落に着く前に雨が降り始め、集落内をびしょびしょになって歩いた。
集落を出たころぐらいを歩いていると、車が止まり、乗りませんかと声をかけてくれてた。親切にも声をかけてもらったが、もう少し歩きたかったので、お礼を言って丁寧に断りした。
余呉湖一周。曇り空で最後には雨に降られたが、反対に暑くなくとても歩きやすかった。
青い空が広がっている時の方が、綺麗だったとは思う。
参照
動画「余呉湖一周散歩」