塩小路通りを鴨川を渡って、
↓七条大橋
ゆるい坂を上がると
旧方広寺の南大門がある。
南大門をくぐると左手に朱色の建物が目に付く。
その建物がが三十三間堂。そして上の写真の右手に白い旗が上がっているところが今回行った法住寺。
法住寺
今の法住寺は、三十三間堂の東にある小さなお寺だ。
今は規模からすると三十三間堂がかなり広い上に、参拝する人も相当違いそうだ。
かつてこの辺りには法住寺殿があり、広い敷地だった。三十三間堂もその敷地の中にあった。
ウィキペディアに三十三間堂のページに以下のようにあった。
この地には元々後白河上皇(1127年 - 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。
御本尊は、身代わりさんと呼ばれる「身代わり不動明王像」。
百余年前慈覚大師の御造顕された木像の立像です。後白河天皇が法住寺を御復興になりましたのも、この不動明王像の霊験を親しくご体験になったからで、歴代天皇も公家・武家も、ひとしく厄除け・方除けを祈られ、国家安泰の守護仏と崇められたのです。 (法住寺ホームページより)
後白河法皇が法住寺殿に住んでいる頃、木曽義仲が攻めてきて、危うく命をおとしかけたところ、天台宗の明雲大僧正が敵に矢を打たれ、後白河法皇は難を逃れることができ、法皇は「お不動さまが明雲となって我が身代りとなってくれた」涙を流されたそうだ。
親鸞聖人作の像
親鸞聖人作阿弥陀如来像と親鸞聖人そば喰い御像などがある。
このお寺は、天台宗の西山禅林派の寺だが、浄土真宗の開祖の親鸞聖人が彫られた像が納められている。明治時代にこのお寺に祀られることになったそうだ。
後白河法皇の像
この像は、運慶作とされる像。明治の頃には年に一回開扉をされていたようだが、昭和35年以降は開扉をされておらず、平成になって開扉されるようなったようだ。
毎年5月1日から7日の間に開扉される。
法要は5月3日に行われる。
法住寺という名は、昭和30年になって復名できたようだ。
昭和三十年に法住寺という寺名を歴史に残すため、明治維新に御陵と寺域が分割されました時、当時の妙法院の宮様より御陵御守りの功徳によっていただきました大興徳院という寺名より「法住寺」に、前住職赤松祐成によって復名されました。 (法住寺ホームページより)
この寺の奥には、後白河法皇陵がある。
四十七士木造
山科に閑居して時機を待っていた大石内蔵助は、ここの身代わり不動明王に詣でて大願成就を祈願した。四十七士もこの寺を会合連絡の場として利用していたようだ。それもあって、四十七士の像がこのお寺にある。
法住寺前庭
旧方広寺南大門から近い方の「旧御陵正門」から入った。
その門の手前には、「法住寺殿跡」の石碑もあった。
旧御陵正門の前は丁寧に手入れされた前庭があった。
道路から旧御陵正門を見ると、松の木の枝がほぼ横に伸びていた。
枝が折れないように、ちゃんと添木がなされていた。
敷地の前の樹木もちゃんと手入れされていた。
ちょうど梅の花が咲く頃、旧御陵正門前にはきれいに梅の花が咲いていた。
この寺には、旧御陵正門以外にもう一つの門があった。
この門が今の法住寺の正門だろう。
その前にも梅の木があった。
門のカタチ
旧御陵正門の門のカタチは、今までに見た門とはちょっと違った感じだった。
中国の雰囲気を感じさせるような門。
この門のカタチは、「鐘楼門」という門。
饅頭の上に建物を乗っけた感じの門だった。
もう一つの門は、この門が今の法住寺の正門だろう。「薬医門」と言うようだ。
本堂
本堂正面には鐘があって、その前には線香を建てる香炉があった。
鐘の下には、格子の引き戸があった。
先に来た人が、この格子戸を開けて本堂の中へ入っていた。
この格子戸を開いて中に入ってみた。
中は撮影禁止。
本堂建物の中にお守りや護摩木や御朱印など求めることができるところがあった。
靴を脱いであがり、お参りするところもあった。
境内
境内はこんじんまりとしていたが、きれいに手入れがされていた。
枯山水の庭を模した箱庭が本堂前の石畳にあった。
↓この木はしだれ桜だろう。なぜか、雪つりのような木枠の傘がかけられていた。木を護る為だろう。桜の咲いたころに来ても良いかもしれない。
お寺の正門の方から
境内の梅の花
境内に梅の木が三本あった。
本堂横の梅の木。
法住寺正門側のしだれ梅
しだれ梅の木の向いに、赤い花をつけている木があった。これも梅のようだ
法住寺殿
平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河法皇の御所「法住寺殿」がいとなまれた。法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河法皇も崩御すると、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治時代に御陵と寺が分離され現在にいたる。(ウィキペディア「法住寺」より)
藤原為光は、妻と娘の忯子を続けて失った。
その菩提をともらうためにこの寺を建てた。
忯子は花山天皇の寵愛を受けており、花山天皇は、忯子がなくなった悲しみから、出家してしまう。
寛和の変と言われる。
それにより、藤原兼家の娘藤原詮子(あきこ)が生んだ円融天皇の子が一条天皇となる。
藤原兼家の外戚として、権勢をふるうようになり、そして藤原道長につながっていく。藤原家の全盛期を向かうことになる。
今、NHKで放映されている大河ドラマ「光る君」の第八話・第九話の話の時代の流れの中心近くに法住寺はあった。
藤原為光の当時の太政大臣になろうかという貴族の財力はすごかったのか、法住寺の敷地の範囲は広かった。
藤原為光は、祖父藤原忠平が造った法性寺の北に広い法住寺を創建した。
当初の法住寺は南は八条通りから北は七条通りより更に北方に延び、東は法輪寺(今熊野観音)の旧域を除いて東山の山裾に及び、西は今の大和大路にまで及んでいたのです。(法住寺ホームページより)
Googleマップに落とし込んでみた。法妙院や新日吉神社そして新熊野神社と今熊野観音寺が含まれていることから、以下のような範囲になった。南は八条とあったが、九条ぐらいまでになった。そして、為光の父が作った法性寺にあったという東福寺の敷地と重ならように。
法住寺は1032年に焼失してしまう。
そして、約100年少し後の1161に、後白河法皇が、二条天皇に譲位して、法住寺の地を御所として、この地で院政をしくことになる。
当時からするととても小さくなったお寺だが、歴史の流れの中に埋もれそうになりつつも、復活を遂げたお寺のような感じだ。