乙訓寺へ
乙訓はちょっと読みにくかもしれない。
「おとくに」と読む。
乙訓は京都府の地名。今は乙訓郡だが、かつてはもっと広かったのだろう。
乙訓の名前が付いた乙訓寺は、長岡京市にある。明治の頃は乙訓郡だった。
この寺は、平安京よりも前からある寺。
長岡天満宮にお参りした後、次どこへ行こうかと歩いていると。
道標の石碑があった。乙訓寺1.3km。
石碑の上にあるのは、竹の子。
この辺りは竹の子の産地である。長岡天満宮には、「竹の子最中」を売っていた。
この道標を見て、乙訓寺が近いなら、行きたいと思った。
Googleマップのナビに?
Googleマップのナビゲーションはよくできていると思う。
ちゃんと信号を渡るようにナビしている。
しかし、時々、たどり着けないこともある。
何年か前、豊国廟に行こうとGoogleマップのナビの指示通り歩いた。
確かに近くまで行けたが、入り口と全く違った。行こうと思えば、塀を超えて山の斜面を這い上がらないといけなかった。
あの時は山があったから仕方ないかと思う分もある。
住宅地の中にある寺、安心してGoogleマップのナビに従って歩いた。
そして目的地近く。
下の写真の少し先が、Googleマップのナビでの目的地。
この先に入り口があるのかと思ったら、なかった。
そのまままっすぐ歩いて、最初の角で曲がって少し歩くと、らしき入り口があった。
そこは、裏門だった。この門から入った。
この寺には、Googleマップで目的地とされた全く逆の場所に立派な表門がある。
乙訓寺
裏門
前述の通り、裏門から入った。
門の横に説明の駒札があった。
「一間一戸※1・高麗門・切妻造・本瓦葺・両脇練塀付 元禄八年(1695年)
沿革:棟札に裏高麗門と記し、間九尺とする。仕様覚は裏門「黒門」作りとしている。」とあった。
※1:一間一戸(いっけんいっこ):一番端の柱と柱の間が一間(約1.8メートル)あり、戸が一つの門。(足立区ホームページより)
境内
境内はよく手入れがされた感じがあった。
観光案内説明
乙訓寺の由緒や早良親王のことなどの説明があった。
早良親王供養塔
石塔
弘法大師像
鎮守八幡社
本堂
本堂前に錫杖があった。ちょっと持ってみたが、とても重い。
鐘楼
駐車場。
表門から出ようと思ったが間違って駐車場に出てしまった。駐車場を出たところに、表門があった。
表門
乙訓寺の牡丹の花
乙訓寺の境内には、牡丹の花がたくさん植えられているようだ。
3月になったばかりの頃なので、牡丹の花は当然見れなかった。
乙訓寺の牡丹の花の見ごろは、4月下旬から5月上旬のようだ。
2000株の牡丹が見ごろを迎える。
奈良県の牡丹の花で有名な長谷寺から昭和15年に牡丹の木が贈られた。
それまでは、表門から松の木の並木が美しかったそうだ。昭和9年の室戸台風でほとんどが倒れてしまったようだ。応仁の乱を生き延びた松の木だったが。
その中で、モチノキだけが生き残った。今でも境内高々と背を伸ばした木。
そして、台風被害がひどい状況を見て、長谷寺の第六八世の住職が、荘厳花と参拝者への安らぎのために長く愛育した牡丹を二株寄進されたそうだ。
それが、今では2千株まで増えたようだ。
表門を入ってすぐのところに、なにかが植えられているようなところがあった。
ちょうど松並木があったところだと思う。
↓おそらくここに牡丹の株がたくさん植えられているのだろう。
乙訓寺の縁起
この寺は、平安京よりも前からある寺。
縁起によると、この乙訓の地は弥生時代から多くの人が住んでいたようだ。
継体天皇が弟国宮(おとくにみや)を築かれたともいわていている。
推古天皇の勅願を受けた聖徳太子が十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立した。これが、この寺であるとのこと。
乙訓寺を知ったのは、桓武天皇の弟の早良親王が幽閉された寺という話から。
桓武天皇が長岡京へ遷都した翌年の785年に造長岡宮使の藤原種継が暗殺された。
その事件に連座して早良親王がこの寺に幽閉された。
早良親王は無実を訴え断食をして、淡路島に流される途中で亡くなった。
死因については諸説あるようだ。
その後、桓武天皇の周りに不吉なことが続いて起こり、早良親王の祟りだと恐れられた。
そして、恐れた天皇は、早良親王は崇道天皇と追称された。
それでも恐れが収まらず、親王亡骸を大和の国に移葬するなどをした。
そして京都にも唯一早良親王(崇道天皇)を祭神とする神社がある。崇道神社。
嵯峨天皇は、弘仁二年(811年)に弘法大師をこの寺の別当にした。
天台宗の宗祖伝教大師(最澄)が乙訓寺を訪れて、密教の法論を交わされ、灌頂の契りを交わしたそうだ。
織田信長頃一時衰退するが、
徳川幕府五代将軍徳川綱吉は堂宇を再興し乙訓寺法度をつくり寺領を寄せ徳川家の祈願寺としたようだ。
この寺は草創から1300年余り、真言道場とし今日に及んでいる。
乙訓寺草創の時代
この時代は、大きな時代の変わり目の時代だったと思う。
天武天皇系の男性の系譜が絶えた後、天智天皇系で天智天皇の孫で桓武天皇の父の光仁天皇が即位した。
旧体制の奈良の勢力を避けるように桓武天皇は長岡京の地に都を遷都した。そして10年年後に平安京へ遷都した。
桓武天皇は、逃げに逃げて、平安京に遷都したように思える。
奈良からは、旧勢力から逃れる為に。そして平安京へは、早良親王の祟りを恐れるが故に、親王が幽閉された乙訓寺がある長岡の地から逃げたかったのが一因ではないかと思う。
蛇足になるが。
桓武天皇と息子の平城天皇は関係があまり良くなかったようだ。
平城天皇は、嵯峨天皇に譲位して上皇になってから藤原薬子などに促されて奈良に遷都しようとした。それを嵯峨天皇が抑え込んだようだ。
この時代の天皇家は、国の最高権力者であることから、ひとつひとつの行動や考え方が、周りに大きく波及した。
その頃の乙訓寺の伽藍はかなり大きかったようだ。
乙訓の名前のいわれ。
乙訓(おとくに)という地名はちょっと変わった地名のように思える。
乙訓は実際の地名である。乙訓寺は京都府長岡京市にある。
長岡京市に接して大阪側に、乙訓郡がある。
郡という行政名は名前だけで実質行政を取り仕切っているのは郡の中にある町である。乙訓郡には山崎町がひとつだけある。
この辺りは、北から天王山の山がせり出し、桂川や宇治川、木津川がが合流するあたりにあり、南からは石清水八幡宮がある男山が迫る。とてもこの辺りは狭くなりるあたりある。
交通の要所でもあった。
山崎というと、豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの主戦場になる。
話はもどって、
なぜこの辺りを「おとくに」というのだろうか気になった。
先述の継体天皇が築いた「弟国宮(おとくにみや)」に由来するようだ。
なぜ「弟国宮(おとくにみや)」という名前なのか?
調べるとすぐ出てきた。コトバンクに以下のようにあった。
(「古事記」によれば、円野比売命(まとのひめのみこと)が己の醜い姿を恥じて、この地の淵に堕(お)ちたため、堕国(おちくに)と名づけられたが、のち、転じて弟国(おとくに)と呼ばれたことから) 京都府南部の郡。
なぜ弟国(おとくに)が乙訓になったのだろう?
ウィキペディアの「乙訓郡」には、以下のようにあった。
和銅6年(713年)の好字改正令によって弟国郡から乙訓郡に改められた[1]。
弟国から乙訓という字が割り当てられたかは、ちょっとわからない。