梅田で阪急京都線特急に乗って河原町まで行くつもりだった。
途中で気が変わった。
長岡京に行こうと。
平安京前10年だけ都があった場所。
当時を思わせるものは何もないと思うが、一度どのような所か行ってみたかった。
予定を変更して、「長岡天神」駅で降りた。そこから普通電車で次の駅の「西向日」駅まで行った。
かつては 向日市と長岡京市その西隣の大山崎町と京都市の南区、伏見区、西京区のそれぞれの一部が乙訓郡だった。今は山崎町だけが乙訓郡。
その大山崎町のあたりは、通せんぼするかのように北摂の山が淀川に向かってせり出し、平地が狭くなる。JRと新幹線と阪急、そして、国道171号線が所狭しと走っている。
それが少し開けたら所に長岡京市や向日市がある。
せりだした山のあたりに天王山がある。
784年に桓武天皇が平城京からの遷都先として、長岡京の場所を選び遷都した。
しかし、遷都して10年で平安京に遷都してしまった。
もう1,300年ほど前の話なる。
長岡京というから内裏とか太極殿は、長岡京市にあると思うが、実は向日市(むこうし)にある。長岡京の範囲は現在の長岡京市も含まれる。
大極殿という交差点があった。
駅前の案内地図を見て歩いた。
駅から近く短時間で歩いて回ることができた。
と思ったが、あとでネット調べると行き漏らしたところがあった。
西向日駅 西改札口出たところ
案内看板
古墳も多いようだ。
地図の通り長岡京跡ぐるっと回って、看板を見て、駅近に戻っていると、「長岡宮朝堂院西第四堂跡」案内所があった。
案内所にはちょっとした展示があった。入っていくと、案内所の人が来て、長岡京の説明をしてくれた。発掘された瓦が難波宮で作られたものであるとか、当時は二都制で平城京と難波宮があったなど詳しく教えてくれた。
それより興味を持ったのが桓武天皇にまつわる話だった。
案内所ある公園には、一本だけ桜の木が植わっていた。
桓武天皇
案内所で聞いた桓武天皇の遷都の経緯を覚えている範囲とネット調べた情報を加えてみた。
当時は天武天皇系が主流だった。しかし、桓武天皇は天智天皇の曾孫になる。
桓武天皇は、光仁天皇の長男(第一王子)として天平9年(737年)に産まれた。血筋としては天智天皇の曾孫になる。光仁天皇が高齢で即位するまでは、天武天皇、天智天皇の娘の持統天皇(天智天皇の娘だが、天武天皇の妻なので天武系なのか?)、そして二人の間にできた息子である草壁皇子と天智天皇の娘元明天皇の子の文武天皇、次は元明天皇(天智天皇の娘だが、天武天皇の息子の草壁皇子の妻なので天武系なのか?)そして、同じく草壁皇子と元明天皇の子の元正天皇、文武天皇の子の聖武天皇、その子の孝謙天皇がなった。孝謙天皇は女帝である。次が、天武天皇の子、草壁皇子の兄弟の舎人親王(とねりの親王)の子の淳仁天皇がなり、そして、孝謙天皇が重祚して称徳天皇になるように、天武天皇系が続いた。淳仁天皇は、淡路島流されてしまう。当時は政権争いが激しかったようだ。
それが称徳天皇でその系列がおわり、天智天皇の血筋である天智天皇の孫の光仁天皇が62歳で即位した。皇太子には天武天皇系の皇子がなったようだ。光仁天皇系は高齢化なので、早暁崩御すると思われた。即位後10年も生きた。
その間に皇后が大逆を起こし廃され、連座するかのように皇太子も廃された。そこで皇太子になったのは桓武天皇だった。桓武天皇は出自はよくなく、皇太子になる家柄でなかったようだ。桓武天皇が光仁天皇の皇太子になれた。それには光仁天皇の信頼あつい武家の藤原百川の擁護があったようだ。
ただ、桓武天皇、天武天皇系でなかったためバックグランドも薄かった。
そのまま平城京にいると暗殺される危険を感じ、自分を支えてくれる基盤の百済系が強い枚方あたりに遷都を考えたようだ。百済系枚方を平城京勢力の盾に、背景には渡来系の秦氏がいる長岡京の土地を選んだということだ。
桓武天皇は10年ほどで、平安京へ遷都してしまう。その件は早良親王のことが有名だが、もう一つ要因があった。
それは、長岡京の斜めに走る善峰川と淀川の氾濫も原因の一つだったとのこと。
案内所所での話はとても興味深かった。