閑院宮邸跡 江戸時代の歴史を明治時代が上書きしたような場所。20220128

閑院宮邸跡

閑院宮邸跡配置図

京都御苑 閑院宮邸跡

ここには、浮出絵付駒札の絵がある。
閑院宮邸跡と西園寺邸跡の分がある。
西園寺邸跡と閑院宮邸跡の駒札を撮りに行った。
前回行ったのは12月31日だったため、閉まっていた。
二つと思っていたが、一つは、閑院宮邸跡、もう一つは、西園寺家邸跡、もう一つは、堺町御門だった。
閑院宮跡 浮出絵

浮出絵付駒札の絵は、受付の前のテーブルに三つならんであった。f:id:m3785com:20230201190223j:image
これで、ここに来た用事は完了。
次へ行こうかと思った。
せっかく閑院宮邸跡収納展示館の入り口に来たのだから、建物は見て回れるようなので、見て回ることにした。

入場料は無料。
京都御苑 閑院宮邸跡

建物には、展示館という看板がかかっていた。f:id:m3785com:20230129153342j:image

単なる案内所で、形式通りの展示がしてあるだけかと思っていたが、意外にも面白いところだった。

元の閑院宮邸は

今の京都御苑の敷地内には、京都御所を中心に、二百もの宮家や公家の家が立ち並ぶ公家町だったようだ。
しかし、明治初期の大内保存事業で、ほとんどの家が取り壊された。

京都御苑あたりにあった公家町はかつては大内と呼ばれていたのだろうか?
その中で、閑院宮の邸宅は創建以来の場所にある。

当時の閑院宮邸は以下ようだった。

当時は、烏丸通と丸太町通りが交差するところの北東角にL字型の屋敷を構え、御門と塀をのぞく建物は東山院旧殿を移築した総面積498坪(1,643㎡)にも呼ぶ大規模なものでした。(庭園内の「池と州浜」の案内文より)

相当大きな建物が建っていたのだろう。

今の京都御苑(大内)の南西端にあって、建物からはの景色は、当時は視界を遮る高い建物や木はなく、低い建物しかしなかったと思われるため、庭と東山三十六峰を借景に、さぞかしいい景観だったのではないかと想像できる。
↓閑院宮邸跡近くの堺町御門まえから、大文字山。
京都御苑 堺町御門付近

この建物が宮家の邸宅と使用されたのは、宮家が東京に移る明治10年(1877年)まで。

その後は、華族会館になったり、裁判所になったりで、明治16年に宮内庁京都支庁となり、建て替えられた。
旧閑院宮邸跡の西側に宮内省京都支庁の所長官舎が建てられた。
明治から大正期の趣をを残した庭園が遺されているようだ。
しかし、一部に旧閑院宮邸の資材が使われたと考えられている。
ちゃんときれいに整備されていた。これは整備事業の結果。

平成15年~17年に、閑院宮邸跡に遺された建物や長屋門などの歴史的価値の高い建築物を再整備し、庭園では庭が復元されました。平成24年~25年度には宮内庁長官舎跡地の庭園の復元整備が行われました。(閑院邸宮跡入口門よこ説明より)

京都御苑 閑院宮邸跡 説明

江戸時代の閑院宮邸を明治が上書きして、平成に甦った。

 

 

 

閑院宮邸跡収納資料館

資料館となっているが、明治時代の様式の建物。昭和の家に住んだことのある者にとっては、内部の廊下などが、なんとなく親しみを覚える造りだった。
元の建物はどのようなものだったかは、今の建物からは計り知れない。

↓入口(受付)
閑院宮邸跡

振り返ると、なんとなく懐かし感じがする造り。昔の学校のような雰囲気もある。
閑院宮邸跡

閑院宮邸跡

展示室を通り過ぎて、※右の部屋が展示室。
京都御苑 閑院宮邸跡

京都御苑 閑院宮邸跡

この部屋は少し趣向を凝らしているようだ。説明がついていた。
京都御苑 閑院宮邸跡

京都御苑 閑院宮邸跡 説明

舟肘木(ふねひじき)
※肘木:上にあって桁 (けた) と軒を支えるための横木。ここでは舟型か?
京都御苑 閑院宮邸跡 舟肘木

蟇股(かえるまた)
※社寺建築で柱の頂部をつなぐ頭貫(かしらぬき)と軒下の桁(けた)との間や、梁(はり)上に置かれる部材。カエルが股(また)を開いたような形をしているのでこの名がある。京都御苑 閑院宮邸跡 蟇股(かえるまた)

部屋をて、中庭の方へ。

京都御苑 閑院宮邸跡

中庭側から先ほどの部屋

京都御苑 閑院宮邸跡

中庭、右手が受付。左手がレクチャーホール。
京都御苑 閑院宮邸跡中庭

レクチャーホール前、京都御苑 閑院宮邸跡 レクチャーホール

椅子もあって広い縁があって、中庭を眺めながら休憩できる。
レクチャーホールでは、横長のスクリーンに京都御苑の四季折々の映像が流されていた。きれいな映像だった。
横長といっても、横縦比率が16対9といったものではなく、もっと横長で、5対1ぐらいの横長。高さが目測2mほどあったように思う。横の長さは10mほどあったかもしれない。

京都御苑 閑院宮邸跡

築山と資料館
京都御苑 閑院宮邸跡 庭

入り口と横に築山があり東屋のような建物の前には池がある。

京都御苑 閑院宮邸跡 庭

池の横に東屋のような建物があった。その前に池についての説明があった。

京都御苑 閑院宮邸跡 庭の池

庭園の造営時期や当初の池の位置など詳しいことはわかっていませんが、発掘調査の結果、新旧2つの時期の池底や州浜状の礫敷きが確認され、18世紀中ごろに作庭されたものが、度重なる改修を経て現在の形になっと考えられます。
 現在の池は平成15年から17年度に行われた閑院宮邸跡の全面的な整備で復元されたものです。ハックされた作庭当時の遺構は保存のために埋め戻し、その上に緩やかな玉石を州浜を設けて、当時の池の意匠を再現しました。

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旧宮内庁長官舎跡と庭

旧宮内庁長官舎は再現されていないが、当時の間取りが原寸で再現されていた。同時に庭も整備されたのだろう。原寸の間取りとそこから見える庭の様子を感じることができるようにとのことかもしれない。

この建物は、どうも、今のある旧宮内庁の建物より大きそうだ。

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下の区画は四条とあった。広敷地に四条の間取りを見るととても小さく感じ5-z
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各部屋こ間取りから見える庭の説明があった。
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閑院の宮って

閑院というと鎌倉時代に天皇たちに使われた里内裏が思い浮かぶ。京都御苑に西に接する烏丸通りから、数本ににある西洞院通りが東の端、西は油小路通り、北は二条通り、南は押小路通りにあった。
1227年に天皇家の根本内裏の内裏のあった大内裏が火災で焼失したあと再建されることがなくって以来、天皇家の根本内裏となった里内裏が「閑院内裏」だった。
内裏はよく焼失した。当時の建物は木造で燃えやすかった。今のように消火栓・消防車もなかった時代、一度火がつくと止めようがなかっただろう。

内裏が焼失する度に、里内裏の再建がなされた。

天皇は閑院内裏の再建も願っていたようだ。

閑院内裏への思いは、天皇家にあったのかもしれない。

 

閑院宮家は1710年東山天皇の第六皇子直仁親王を始祖として始まった。
四親王家のひとつ。他の三つは、伏見宮、有栖川宮、桂宮。

おそらく、この閑院宮の閑院は、鎌倉時代の根本内裏の「閑院」からきているのでないかと思えなくもない。