高松神明社・高松殿跡(京都市中京区)平安時代白河天皇の里内裏、2024年の大河ドラマ「光る君へ」に関係あるかも・・ 20220814

 

高松明神社・高松殿址

釜座通りと姉小路の交差点を東に歩くと、白い鳥居が見えてくる。

高松神明社の鳥居。

見過ごしていしまいそうになる小さな神社だ。

高松神明社(京都市中京区)

かつてここは、高松殿があった。

この高松殿は、醍醐天皇の十番目の息子の高明親王が七歳の時に、源朝臣の姓を賜り、左京の三条三坊に邸宅として造成されたの始まり。同時に伊勢から天照大神を勧請。

高松神明社

白河天皇の里内裏であり、保元の乱では一時天皇側の後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らが参集した。平治の乱(1159)で高松殿は焼失し、当社のみが残った。
小さな神社だが、歴史の出来事にかかわる里内裏のあった由緒がある神社。

真田幸村の知恵の地蔵尊(石の半跏座像)

また、ここには、真田幸村の知恵の地蔵尊(石の半跏座像)がある。

高松殿から時代は下がり、

寛永6年(1794年)高津神明宮宝性院の社僧が紀伊の国の伽藍陀山善名称院(真田院)に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領して持ち帰り、三間四面の地蔵堂を建て「幸村の知恵の地蔵尊」としておまつりしまいりました。地蔵堂の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かると信仰されています。(高松神明社由緒略記より)

真田幸村の知恵の地蔵尊

水琴窟

水琴窟

水琴窟は江戸時代の文化・文政時代に庭師によって考案された日本庭園酒匂の技法とされています。日本独自の風流な仕掛けをご参拝の折に味わって頂きたく庭園風手水として設えました。妙なる神秘な水音を聞きながらご参拝ください。以下略(水琴窟説明文より)

神社創建千百年記念事業でつくられたもの。

   

 

高松殿と呼ばれた頃、当時の広さはどれくらいだっただろう。

今は、どちらかというと狭いという感じの敷地、高松殿とよばれたころの敷地はどれくらいだったのだろう。
天皇の里内裏に使われるほどなのだから最低でも、平安京の一町の広さはあったのではないだろうか。四方を通りに囲まれた。

醍醐天皇の十番目の息子に与えた場所であるから、一町ぐらいが適当かとも思う。

「内裏高松殿、姉小路北西洞院東東西一町南北一町」と「歴代編年集成、帝王編年記」に記されていたようだ。

平安京は、坊条制がしかれており、一坊に16町あった。町の間に通りがあったようだ。

一町とすると、

範囲は、
南に姉小路(姉小路通り)
東は町小路(新町通り)
西は西洞院大路(西洞院通り)
北は三条坊門小路(御池通り)に囲まれた範囲だったのではないか?

話は変わるが、今では新町通りと西洞院通りの間に釜座通りがある。
釜座通りは、平安時代には存在していない。
釜座通りは「突抜け」。秀吉の天正の地割で生まれた。

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周辺の通は、姉小路、町小路、三条坊門小路で、小路とある。
現在の姉小路(姉小路通り)や町小路(新町通り)の広さかと思うと、そんなことはない。

小路でも広さは4丈で約12mほどあったのではないかと思う。

西洞院大路は12丈で約36mほどあったのだろう。

↓高松神明社の向い建物から撮った、神社の前は姉小路通り。センターラインのない道。幅は5mほどか。当時はこの倍以上の広さがあったかも。

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現在の一丈は3.0303m

一町は109m、約36丈。

平安京の頃は一町は40丈あったという記述がある。

「平安京の設計」((財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館)参照)では、朱雀大路が28丈で約83.56m、一町は40丈四方とあった。

83.56m÷28丈=約2.98mとなり(現在:1丈=3.0303m)

現在の一丈より少し短い。

一町は約2.98m×40丈=119.2mとなる。

40丈四方となると、約119.2m×約119.2m=約14,208.64㎡(約4,298.11坪)となる。

平安京の頃の一町は約120mだったようだ。

 

ちなみに広さの比較をしてみると

京都御苑内にある京都御所の広さは、
南北453m×東西254m=115,062㎡(約37,395.15坪)

本来の内裏(大内裏の中にあった)は、
南北100丈×東西73丈(約300m×約219m=約65,700㎡(約19,874.25坪)

平安神宮の広さは、日本庭園を除くと約10,000坪、約33,057.85㎡。

どれも広く比較にならない。東京ドーム(46,755㎡)でも比較にならない。

広さの比較でわかりやすいのは、
Jリーグなどで使われるサッカーコート2面分ぐらいかと思う。
線のひかれている範囲。

サッカーコートの広さは105m×68m。これの2面分の広さ。

想像すると、天皇が住む場所としてはとても狭い気がする。

天皇住まい

12世紀から江戸時代までは、広さは一町または時には半町ぐらいが、天皇や上皇が住む里内裏の広さだったそうだ。

上記の高松殿の広さとほぼ同じぐらい。

本来の天皇住まいは、大内裏の中にある内裏だった。
その大内裏はなんども火災に遭った。
その都度再建されたが、鎌倉時代に大内裏は再建されなくなった。

それより前に、天皇や上皇は、大内裏の内裏より、京の町中にある里内裏に好んで住むようになったそうだ。

大内裏内の内裏は暮らしにくかったのだろう。

 

 

 

   

 

2024年の大河「光る君へ」との関係は?

2024年の大河は、「光の君へ」という。吉高由里子さんが扮する紫式部の話のようだ。

久々に大河の舞台が京都に戻ってくる。

この神社も高松殿の頃は、高明公の娘の末娘明子(たかまつどの)が藤原道長と結婚して住んでいたそうだ。明子と道長の娘の寛子は、小一条院敦明親王の室となって高松殿に住んでいた。その後は、藤原一族が澄んだそうだ。

紫式部が仕えたのは、藤原道長の娘の彰子。寛子とは異母姉妹になるのか?

また、光源氏のモデルの源融にも関係がるようなことを社務所の人が言っていた。

何らかの関係で、この神社が2024年の大河の影響で、人気が出ればいいなと思う。

アクセス

京都バス61・62・63「新町御池」下車、徒歩2分

地下鉄烏丸線「烏丸御池」下車、徒歩5分