動画追加しました。20220408
新宮城跡へ
新宮市へは何度も行った。新宮市には史跡や観光名所があるが、ほとんど行ったことがない。
新宮城跡は何度も前を通ったことがあるが、上がったことはなかった。
新宮城跡は、熊野川沿いの丹鶴山にある。
下の写真の小高い丘が新宮城跡。新宮城跡の下をJRが通っている。
かつては、旅館やけケーブルカーがあった。
1980年(昭和55年)には主要部分を買収し丹鶴城公園として、本丸・出丸・鐘ノ丸・松ノ丸跡などの整備が開始された。ケーブルカーの運行は、1980年(昭和55年)11月、皇后美智子(当時)の訪問時が最後となった。(ウィキペディア「新宮城」より)
新宮城は丹鶴山にあり。「丹鶴城」とも言うようだ。源為義の娘の「丹鶴姫」の住まいがあったことによる。このあたりに町名も「丹鶴」。
源為義は、河内源氏の棟梁で源頼朝・義家の祖父に当たる人。以仁王の平家追討の令旨を持って、各地の源氏をまわり、源頼朝に令旨を届けた源行家こと新宮行家の父でもある。行家はしばらく新宮にいたことから新宮行家、新宮十郎とも呼ばれている。
そして、新宮から国道168号線を北上すると平氏の棟梁平忠盛の六男、平清盛の弟の平忠度(たらのただのり)の生誕地がある。
当時は熊野詣が度々行われたので、源平の足跡がのこる。
神武の東征で新宮付近に上陸した神武天皇と兵士が、大熊にあって大熊が消えた途端に気を失わさせれたところでもあるようだ。
新宮城跡南の熊野川沿いに蓬莱山がある。そのふもとに世界遺産の阿須賀神社がある。その近くに、秦の始皇帝の命で不老不死の薬を求めて徐福が上陸とされる場所がある。
新宮観光協会のページによると神武東征と徐福の新宮上陸の時期は近いようだ。
日本の歴史で神武天皇と言えば遠い歴史の話のような気がするが、中国の秦の時代というと、まだ近い歴史のように思える。
仲之町商店街を近くから、新宮城跡の方を見た。
新宮城跡の案内看板
新宮城跡
入り口。もう少し右手の方にも入り口がある。そこに駐車場があった。
石垣はしっかりと残っていた。
鐘の丸
ここにはかつて、旅館とかがあったようだ。何もない広場だった。新宮市内と熊野川を望めた。
天主台にあがる階段の手前に、休憩所があった。
休憩所から天守の石垣。手前にある碑は、川上不白の顕彰の碑
天守台
丹鶴姫の碑
出丸
下の写真は、もう一つ入り口に下りる階段から撮った。白い線のあたりにおそらくケーブルが通っていたようだ。
72mというとても短い、鉄道史上最短のケーブルカーがあったようだ。
かつてケーブルがあった所を、上から見た。
新宮城略歴
ウキペディアより一部抜粋
1601年(慶長6年)、紀州藩主となった浅野幸長の重臣・浅野忠吉が築城を開始。
1615年(元和元年)、一国一城令により廃城となる。
1618年(元和4年)に再び築城が認められると、浅野忠吉は熊野川沿岸の新宮城の再築に着手した。
1619年(元和5年)、完成を前に、浅野氏は備後三原の三原城(現在の広島県三原市)へ転封し。徳川頼宣が紀州藩主として入国して以後、付家老・水野重仲(重央)が城主となった
1628年(寛永5年)2代重良の時代に城下の田地であった伊佐田(いさだ)に堀を設け
1633年(寛永10年)に完成を見た。
1667年(寛文7年)その後も3代重上が石塁などを造築し、現在に見られる近世城郭が完成した。
水野氏の居城として明治維新を迎えた。
1869年(明治2年)水野忠幹の封土奉選後、新宮城の下屋敷に新宮藩の藩庁が置かれた
1871年8月(明治4年7月)には廃藩置県により旧藩庁に新宮県庁が置かれた。
1872年1月(明治4年11月)に和歌山県と合併した。
1873年(明治6年)の廃城令より、天守などの建物を払い下げ。
1875年(明治8年)までにすべて取り壊されて、旧材は寺院などに転用された。
1891年(明治24年)には二ノ丸(上屋敷)跡に天理教南海大教会が開設された。
1972年(昭和47年)に移転すると天理教会婦人部が経営する現在の正明保育園が開園している。