将軍塚は、東山の山頂にある。
東山はの北西の麓には知恩院があり、北東には蹴上がある。
東山というが、この山は「華頂山(かちょうざん)」という名前もあるようだ。
地図で見ると、東山連峰とは三条通りを境界で離れてあるように見える。
交通バス
将軍塚へは、車でも行けるが、バスで行った。
歩いていくのは、無理ではないがちょっと大変そうだ。
バスの場合、京阪バス70系統に乗る。
このバスは将軍塚がある青龍殿から蹴上、神宮道、三条京阪、河原町三条、四条河原町、五条京阪、五条坂とを反時計回りに巡回している。
1時間一本程度だが、昼でも1本もない時間帯もある。
四条河原町から乗るとき、バスの乗り場は四条河原町交差点より南に離れているの注意が必要だ。南行き車線沿いにある。
四条河原町から11時47分のバスに乗った。
乗客は誰も乗っておらず、自分ひとり。
誰も乗って来ないのは、なぜ?
季節外れだからだろう。現地は空いているというより誰もいないかも?と思いつつバスに揺られていた。
バスは河原町通りを南下して五条通りで左折、大谷本廟の前を通り、1号線のバイパスに乗り、左折して東山への登り道へ。
京都市内の繁華なところのすぐ近くに、山を上がる感覚が味わえるのは面白い。
四条河原町から17分ほど。
12時4分に、青龍殿前についた。
帰りのバスは13時、ほぼ一時間あった。
将軍塚
桓武天皇は、長岡京に遷都したが、色々と事故があった。和気清麻呂が桓武天皇をこの場所に誘い、京都盆地を見下ろしながら、遷都を進言したそうだ。桓武天皇は京都盆地に遷都を決め、都の鎮護のために将軍像を作らせて塚に埋めさせたそうだ。それが将軍塚。
↑将軍塚の南横にある西展望台より。
1200年ほど前の平安京遷都の前に、桓武天皇がこの地に立って、京都盆地を見ていたのだろうか。
当時の眺めはどんなだったろうか?
京都盆地はどんな風景だったのだろうか?
木々が生い茂る森の風景だったらのだろうか?
田畑が広がる風景だったのだろうか?
木々と草っ原が混在し田畑や家が点在する風景だったのだろうか?
桓武天皇はどのような景色を見たのだろう?
上の写真の、真ん中あたりの緑のところが御所。
左のほうがかつての大内裏のあたりだろう。
当時見た方向はもう少し左に振った方向だと思う。
大内裏のあたりが真正面に見えたのではないかと思う。
しかし、実際行ってみると、見下ろすとなると意外と木々が視界を遮るような感じだ。
高いところに上らないと京都盆地を見ることができたのではないかと思う。
和気清麻呂が天皇が来る前に木々を伐採して見晴らしを良いようにしていたのかもしれない。
昔、将軍塚が鳴るときがあったようだ。
その時は、天皇家に良くないことが起きると言われていたようだ
平安時代に武家が台頭し、天皇家から武家社会に変わるときに鳴ったようだ。
青龍殿
将軍塚は青龍殿の中にある。
青龍殿は、1913年(大正2年)大正天皇即位を記念して北野天満宮前に建立された。昭和22年京都府に移管されると、警察の柔剣道場として利用された。
平成10年に解体して、今の場所に移築再建された。
言われてみると道場の雰囲気がある。
建物の中は、中心は板張りでそこそこ広い。それを囲うように少し高くなって畳が敷れ、さらにそれを囲うように少し高くなって畳が引かれている。それぞれが畳一帖の長辺分ぐらいの幅で段々になっている。
まんなかの板こところで練習試合をして、畳のところには先生や客が座ったのだろうか?
板張りの上の天井は周囲の天井より一階分高くなっていた。
大舞台
青龍殿での裏にある。
北に張り出した舞台だ。
絶景だった。
ほとんど視界を遮るものがない。
と言いたいが、山の木々が視線の下の方で少し邪魔をする。
天気もよく、とても見晴らしはよかった。
賀茂川、御所、二条城、平安神宮の鳥居、船岡山、金戒光明寺だど木々の多いところや目立った色の建物の位置関係がよく見えた。