嵯峨野田園地帯
広沢の池を過ぎると、一面広い田園地帯が広がる。
大覚寺から東方向に広沢池まで、田が広がっている。
刈り入れが終わった田が広がる景色は、広さを感じることができ、歩いていても気持ちがよかった。
刈り取りが終わった田んぼの上を走りまわりたい気持ちになるが、電線が張られていて、田に入ることができなかった。
秋冬のイメージ、実が少し残った柿の木と刈り入れが終わった田。
田と田の間の道、畦道と言うには広い道だった。軽自動車なら通れそうなかんじだ。
この田んぼの中に、嵯峨野古墳群がある。
嵯峨野七ツ塚古墳
広沢池と大覚寺の間の田園地帯には、田んぼの中に古墳がいくつもある。
一度行こうと計画したことがある。
今回たまたま、鷹峯から広沢池を目的地にして歩いた。
広沢池のそのすぐ近くにあった。
あぜ道を歩いていると、広い田の中に、高い木立っていた。
地図を見て、おそらく、ここに古墳があるのだろう。この木を目指して歩いた。
しかし、あぜ道は複雑に入り組んでいるので、一本間違えると目的地にかなり大回りをしないといけない。Googleマップを見ながら、大回りと思える近道を歩いた。
嵯峨七ツ塚古墳七号古墳
広沢池から一番近かったのが「嵯峨七ツ塚古墳七号古墳」だった、遠くから見えた高い木ではなく、その横に古墳があった。
古墳の近くまで行けるが、直近まで行ってみることができなかった。
嵯峨七ツ塚古墳四号古墳
嵯峨七ツ塚古墳三号古墳
畑の奥に少し木が茂っているように見えるところが古墳かと思う。
嵯峨七ツ塚古墳ニ号古墳
道標
二号古墳に行く前に道標があった。
道標の文字は判読が難しい。
無人販売所
京都の嵯峨野だけでなく、田園地帯を歩いているとよく見かける。
三重県の南の紀宝町あたりではよく見かけた。
大覚寺「心経宝塔」
最終目的地大覚寺を目指した歩いていると、大覚寺の心経宝塔が枯れた田の向こうに見えた。
12月後半、冬至の頃になると、3時頃になると、夕方の景色。
夏だと3時は日が高く、ドンドン照りつけている頃。
これくらい、暮れてくると、「帰らないと」と家路に急いでしまった。
嵯峨野の古墳
嵯峨野には古墳多い。
以前には、天塚古墳、蛇塚古墳など太秦周辺の古墳を歩いたことがある。
随分前のように思ったが、約5年前だった。
天塚古墳は、雑木が茂る丘のような感じだったがこれが本当の古墳のカタチかと思った。今でもそんな感じでのこっているのだろうか?
対照的だったのは、蛇塚古墳。住宅街の真ん中にあった。古墳の棺を入れる石だけが残っていた。周りをフェンスで覆われ、その周りを住宅がずらっと並んでいた。行ったときたまたま、管理している人がいて、フェンスの入り口を開けてくれ中を見ることができた。
巡ってみると古墳が色々ある。
見ることができなかった古墳
広沢の池に行き、北嵯峨野の古墳を巡る前、他の嵯峨野の古墳を見に行ったが、一つは入ることができなかった。「移築御堂ヶ池古墳 1号墳」予約が必要なようだ。
もう一つは、入れないと思い通り過ごしてしまった。(「太秦三尾古墳」おそらく「文徳天皇 田邑陵 拝礼所」と同所?)。
入り口周辺にくさりがされていたので、入ってはダメと勘違いした。
ここに行くのに、Googleマップの通り行ったが、予想通り、大回りすることとなった。
院空寺古墳
院空寺古墳も行ってみたが、見るけることができなかった。
地図のポイントの場所にらしきものがなかった。
その横には院空寺があった。
お寺の境内にあるのかと思ったが、らしきものはなかった。
院空寺にお参りをして、次を目指した。
院空寺は、とてもきれい整備されたお寺だった。
当 寺は印空上人(1692年寂)が美濃国(岐阜県)立政寺から入洛し、仁和寺第二十三世門跡、覚隆法親王よりこの地を賜わり、元禄元年(1688)に七堂伽藍を建立したのが始まりとされます。今は當山内にある古墳跡頂上に建立された墓地で静かに眠っています。(「院空寺」のホームページより)
上の説明分を読むと、境内を歩いて、裏に小高い所があった。そこが古墳なのかもしれない。
小高い所へあがる石段沿いに、黄色い万両があった。
南天もあった。
石の産地?
「太秦三尾古墳」の近くあたりから、道側に大きな石が置かれているのを見かけるようぬなった。
石灯籠や石塔など完成もあった。大きな石もあった。
このあたりは大きな石が採れるのだろうか?
それなら、古墳がたくさんあるのも頷ける。
嵯峨野は
嵯峨野(さがの)は、京都府京都市右京区の地名。太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨(さが)」と呼称される事もある。ただし、観光地としての「嵯峨(野)」は嵐山から小倉山に沿った社寺の立ち並ぶ地域(概ね車折神社より西側)を指す。平安京の西方の郊外になることから別名、西郊と公家達はよんだ。(ウィキペディア「嵯峨野」より)
この辺りは秦氏が開発した土地。
古来、太秦を根拠としていた豪族の秦氏によって開発が進められたとされている。平安遷都後には、風光明媚なため、天皇や大宮人たちの絶好の遊猟、行楽地だった。嵯峨天皇が離宮嵯峨院を造営して居住し、その崩御後に外孫の恒寂入道親王(仁明天皇廃太子の恒貞親王)がこれを大覚寺として改めた。882年(元慶6年)に嵯峨野は「禁野」とされ、以後貴族・文人などによる山荘・寺院建立が相次ぐ事になる。藤原定家がこの地に小倉山荘を造営してここで小倉百人一首を撰んだと伝えられ、時雨亭跡とされる遺跡が厭離庵、二尊院および常寂光寺に残っている。(ウィキペディア「嵯峨野」より)