渡辺津 天満橋界隈・坐摩神社(いかすりじんじゃ)行宮・八軒家浜・八軒家船着場・旧淀川の大・ 300610

 高津原橋から、今回は、「渡辺津」へいった。前回の話と重複するところがたくさんあるかもしれない。
熊野街道のはじまりは大阪市中央区の天満橋付近の「渡辺津」。遣唐使がこの地から出発したも言われる。長く大阪の水上交通の拠点であったようだ。
大川沿いにある。大川はかつての淀川。
淀川は、大川、堂島川(中之島の北を流れる)、安治川と名を変えて大阪湾に注いでいる。

このあたりは、淀川沿いで、上町台地の北西の角にあたるのだろう。近くには大阪城もあり、難波宮跡もある。

平安時代の後半、嵯峨源氏の源綱がこの地に住んで、渡辺を名字とした。綱の子孫は渡辺党という武士団まで発展した。渡辺党は、大阪湾を中心に瀬戸内海の水軍を統括するほどの勢力があったようだ。また、渡辺綱は源氏物語の光源氏のモデルの一人とされる源 融(みなもと の とおる)子孫。

 

今は、渡辺津石碑があるとこから天満橋の方に石灯籠が2つ、その先に八軒家浜の船着き場がある。
この船着き場は2008年に大阪市が、水都大阪の再生の拠点とするために、開設されたもの。
当時の賑わいを思わせるものはない。
秀吉の大阪城築城のころに、その役目を終えたようだ。

 上町台地北端の西麓、天満橋と天神橋の間において、平安時代までに渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれる外港が成立した。大江、国府津、窪津、楼津などとも呼ばれた。四天王寺、住吉大社、高野山、そして熊野三山への参詣道である熊野街道の起点として駅楼が置かれた。江戸時代には船宿などが8軒並んでいたいことから、「八軒家浜」と呼ばれた。京都(伏見)と大阪を結ぶ「三十石船」とよばれる過書船のターミナルとなるなど、淀川舟運の要所として栄えた。
現在は、八軒家船着場
(ウィキペディア「八軒家船着場」より抜粋)

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大きな石灯篭2つ。その向こうに見える橋は天神橋。
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天神橋と石灯篭の間ぐらいところに「渡辺津」の石碑があある。よこには「熊野街道」の碑もあった。
丁度、旧淀川の大川が、北の「堂島川」と南の「土佐堀川」が分かれる中之島の東隅の対岸あたりにあったようだ。
「土佐堀川」は、淀屋橋や肥後橋が架かる川だ。中之島の西端で、また堂島川と合流するが、別系の川とみなされているようだ。

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渡辺津の石碑のあたりの川べりの遊歩道から、天満橋。
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江戸時代には、八軒家浜とも言われた。

天満橋駅付近と言えば、大阪城近く、造幣局の桜の通り抜けあったり、天神祭のエリアでもありイベントが多いところ。さらに国の出先機関が多く集まり大阪府庁も近いいわゆる官庁街。仕事でも散歩でもよく行く。

「渡辺津」や「八軒家船着場」があるのも知らなかった。

 

 

   

先日、御堂筋本町の近く(船場)にある渡辺(渡部)発祥地と言われる「坐摩神社(いかすりじんじゃ)」に行った。

この坐摩神社はもともと渡辺津の近くにあったようだ。

秀吉が大阪城築城の時に、今の場所に遷宮させられたようだ。
秀吉が水軍を統括するような武士団の渡辺党が大阪城のすぐ近くにいることが、気に入らなかったようだ。
大阪城の前は、信長と長く戦った本願寺があったことで、渡辺党と本願寺との関わりも気になったのかもしれない。

その名残か、渡辺津近くに、「坐摩神社(いかすりじんじゃ)行宮」がある。

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 天満橋界隈を歩いて。

熊野街道の石碑

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八軒家浜船着場石碑(土佐堀通沿いにある)
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旧高倉筋の石段。大阪はやはり南北の道は細くても「筋」という。
上町台地にあがる階段かな。
松屋町筋から東の谷町筋に行くには長い坂をのぼる。
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