- 浮出絵付駒札を探して後編
- 12、堺町御門
- 13、鷹司邸跡・鎌倉時代から江戸時代
- 14、博覧会場跡・明治時代
- 15、凝華洞(ぎょうかどう)跡・かつての仙洞御所の跡、築山にあるクロマツも見事だが、秋のイチョウも美しい。
- 番外 松に生えた桜
- 16、学習院発祥の地・江戸時代
- 17、橋本家跡・皇女和宮生誕の地・江戸時代
- 18、土御門第跡・平安時代
- 地図
浮出絵付駒札を探して後編
浮出絵付駒札が京都御苑に18ヶ所ある。
昨年年末の年も押し迫る12月31日、この駒札があるのを知って、駒札を探して、京都御苑内を散策した。
回ることができたのは11ヶ所だった。
そして、今回、18ヶ所の残り7ヶ所の駒札の絵を探して京都御苑内をうろうろした。
どんな絵になるだろうか?
京都御苑内を歩いた。
前回は1から11まで、今回は12から18まで。
12、堺町御門
京都御苑の丸太町通り沿いにある御門。一番南ある門だ。
ここの駒札は閑院宮にあった。
この門は堺町通りに続いている。
この門は、京都御苑の九つある御門のひとつ。
一番南にあり、唯一南に開かれた御門。
禁門の変(蛤御門の変)の前の年(1863年)に、長州藩が会津藩・薩摩藩や公武合体の公卿の政変で長州藩が都から追いやられた。
その時、堺町御門の警備を担当していたのは長州藩だったが、長州藩が結集する前に会津藩・薩摩藩が先に固め、長州藩はこの門をはいることができなかった。その後、長州藩は都から追いやらた。
そして、その翌年(1864年)に、禁門の変(蛤御門の変)が起きる。
13、鷹司邸跡・鎌倉時代から江戸時代
近衛家から分家した五摂家のひとつ。
家禄は、織田信長の頃は300石、江戸時代は1000石、幕末には1500石[4][注釈 1]。鷹司家は江戸時代には父子間の家督相続が上手く行かず、江戸時代中期に第18代・房熈、19代・尚輔が近衛家より養子に入り、20代・基輝が一條家より養子に入ったが、その基輝も嗣子に欠け、閑院宮直仁親王の第4王子、淳宮が鷹司輔平として養子に入っている[3]。(ウィキペディア「鷹司家」より)
14、博覧会場跡・明治時代
東京奠都(てんと)の後京都が寂れるの心配した京都府関係者は、1871年(明治4年)、日本最初の博覧会を西本願寺で開き、伝統的産業品を網羅して展示、京都の殖産興業を図りました。第二回から第九回までは、仙洞御所内で開催されましたが、1881年(明治14 年)の第十回から、この地に建設された常設会場が行われました。
(案内看板より前半部分抜粋)
15、凝華洞(ぎょうかどう)跡・かつての仙洞御所の跡、築山にあるクロマツも見事だが、秋のイチョウも美しい。
江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったとところといわれています。
1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)の頃、京都守護職に任じられていた会津藩松平容保が病を患い、朝廷の配慮もありここに本陣としました。
(説明看板前半抜粋)
凝華洞の後には、クロマツのある塚があう。かつての庭園の築山跡。通路にせり出したクロマツのある築山は目立つ。クロマツは「御所透かし」呼ばれる特徴的な技法で樹形が維持されている。
クロマツだけでなく、その後ろにイチョウの木があるようだ。大きなイチョウの木で、秋になると黄色い葉をつけてとても美しいようだ。
番外 松に生えた桜
クロマツの樹上数十メートルのところにヤマザクラが生育した。平成8年にマツは枯れて倒れてしまったが、サクラは、マツの空洞を通り地上まで根を下ろし、今でも多くの花を咲かせている。
16、学習院発祥の地・江戸時代
学習院の発祥はこの地だった。
公家の教育に熱心だった光格天皇は、1779年(安永八年)公家の教育振興に取り組んだ。そして、1845年(弘化二年)仁孝天皇の頃、幕府から学問所の設置が認められ、孝明天皇の頃、1847年(弘化四年)にこの地に開校した。1849年(嘉永二年)に孝明天皇より「学習院」の額(勅額)が下賜され、校名が定まった。
明治になって京都の学習院は廃されるが、1877年(明治10年)、東京に開校した華族学校へ明治天皇改めて勅額が下賜され、学習院の名が受け継がれた。
現在の学習院は、この時(1877年)を創立の時としている。
17、橋本家跡・皇女和宮生誕の地・江戸時代
この辺りが、孝明天皇の妹皇女和宮様が生誕した地と言われている。
和宮様は、橋本実久(さねひさ)の娘典侍(ないしのすけ)の経子を母として生まれ、14年間この橋本家で養育された。
当初は有栖川親王との婚約していたが、破棄され十四代将軍徳川家茂へ嫁ぐことになった。
有吉佐和子氏の「和宮様御留」という本を買ったこがある。当時話題になった本だ。
買ったが結局は読まなかった。少しは読んだ、はじめの部分では、京都の祇園祭のことが描かれたいように思う。読みながらなんとなくその様子をイメージしたものだ。
18、土御門第跡・平安時代
平安時代中期に摂政・太政大臣なった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び上東門第、京極第などとも呼ばれました。道長の長女彰子(しょうこ)が一条天皇のお后となり、里内裏ある当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。「この世おば、わが世とぞ思ふ、望月の欠けたること、なしと思へば」の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたといいます。(説明案内文より)
この先京都御所を超えて、蛤御門を超えた「京都ガーデンパレス」の前に
「土御門内裏跡」の石碑がある。
平安時代このあたりは、土御門第だったのだろう。
ひと通りまわった。
絵はまだ完成していない、いや、できなかった。
カンニングしてYouTubeの動画で完成形をみてそれに合わせて作ったのは作った。
梅の木だった。
やはり紙に写しとらないと写真では分かりにくい。
年に何回か変わるそうだ。
春になれば、新しいものに変わるかもしれんない。今度は、紙でやってみようかな。
地図