京都御苑散歩 浮出絵付駒札を探して、史跡巡り(その1)  2022 1231

「浮出絵付駒札」

京都御苑内には、「浮出絵付駒札」という駒札が御苑の敷地内に18か所ある。

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その札には、ひとつの絵を18分割した金属片が付いている。その金属片に紙を当てて、上から鉛筆でこすると、くぼみが白く残る。昔よくやった版画のようなもの。
その絵を苑内にある18枚の絵をすべて合わせると一枚の絵になるということだ。
懐かしい感じのするスタンプラリーだ。

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興味本位で、この札のあると所を回って、金属片の写真を撮り、集めて、合わせて、どんな絵になるか、パソコンでやってみようと思った。
地図をスマホで撮り、写真に撮った地図を見ながら、札を探し苑内をうろうろした。
地図があるので、おおよその場所はわかる。
巡っていて気が付いたが、
京都御苑内の史跡に「浮出絵付駒札」がある。
苑内観光にちょうどよかった。
しかし、寄り道しすぎて、この日はすべて回ることができなかった。

何度も京都御苑に行っているが、駒札の存在にこの時初めて気が付いた。
色々な史跡があるのも初めて気が付いた。
京都御苑は、京都御所がメインであと仙洞御所や迎賓館があるだけで、緑豊かな公園のように思っていた。

 

   

 

1、中山邸跡

中山さんのことは知らないので、いつも素通りしてた。
しかし、今回は近くまで寄って、案内の立札を読んでみた。
読んでみると、
ここには、幕末の公家権大納言中山忠能(ただやす)の邸宅のあったところ。
娘の権典侍慶子(よしこ)が明治天皇のお母さん。
明治天皇は子供頃、祐宮(さちのみや)と呼ばれていた。f:id:m3785com:20230101144755j:image
この敷地内にうぶ屋が建っていた。
明治天皇のうぶ湯につかった井戸がある。
その井戸が干天で枯れてしまったようだが、新たに掘られたとあった。
その井戸は、祐井(さちのい)と名付けられた。
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ここで「浮出絵付駒札」を見つけた。
随分前に建てられたものかと思われる。
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2、猿が辻

立札には、京都御所の北東の角の築地塀が折れ曲がったところの屋根裏に一匹の猿の彫り物が見られるとあった。屋根裏だから、外からは見えないのだろう。
何回見ても、見つけることができなかった。
烏帽子をかぶり御幣を担いだこの猿は御所の鬼門(北東の方向)を守る日吉神社の使者。
京都御所の、北東の方向に、鬼門を守護する幸神社(さいのかみやしろ)がある。
その神社の本殿の北東の方向に猿の彫り物がある。
前回紹介した。同じような感じの猿の彫刻がここにもあるのだろうか?
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3、近衛邸跡

近衛家は五摂家のひとつで、江戸時代末までに多くの人が摂政や関白になった。

 近衛家(このえけ、旧字体:近衞家)は、藤原北家嫡流であり[2]、公家の五摂家筆頭[2][3]で、華族の公爵家のひとつ[4]。人臣で最も天皇に近い地位にある家とされる[5][6]。家紋は近衛牡丹[6]。近衛家で最も著名な人物は昭和前期に3度にわたって内閣総理大臣を務めた近衛文麿である[7]。別称は陽明家(ようめいけ)。(ウィキペディア「近衛家」より)

近衛家のはじまりは、平安時代末期の鳥羽天皇時の関白の藤原忠通の四男が始まり。

太平洋戦争間近の頃に総理大臣になった近衛文麿は、この近衛家の出身。
明治になっても、平安時代の貴族の末裔が総理大臣になる。
入れ物が変わっても中身は変わらずかな。
この辺りには、大きな屋敷があっただろう。
御所炎上の際は、仮の皇居になったこともあるようだ。
糸桜の名所でもあるようだ。
孝明天皇(明治天皇のお父さん)が桜を愛でて、
「昔より名にはきけども今日みればむべめかれせぬ糸さくらかな」と詠まれた。

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近衛跡・浮出絵付駒札

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しだれ桜

近衛邸跡の前あたりには、糸さくらだけでなく、しだれ桜の木と思われる桜の木ががあった。
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糸さくら

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野鳥

そして、野鳥が集まってくるところがあるようで、以下のような案内があった。
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4,縣井(あがた-い)

京都御苑の西の一番端っこの道にあった。
昔この井戸のそばに縣宮(あがたーみや)という社があったそうだ。
地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中にのぼったそうだ。
この辺りには、五摂家のひとつ一条家の屋敷地内になってた。
一条家は、

藤原北家嫡流九条家の庶流にあたる公家・華族。(ウィキペディア「一条家」より)

井戸水は明治天皇の皇后となった一条美子(はるこ)の産湯にも使われたともいわれている。大和物語では、病気を治す水とも紹介され、井戸の辺りの山吹の風情は、後鳥羽院などの歌にも詠まれた。<案内援用>

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縣井・浮出絵付駒札

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5、蛤御門

蛤御門、この門は歴史的にも有名だ元治元年7月19日(1864年8月20日)の蛤御門の変(禁門の変)では門の周辺が長州藩との激戦地となった。

この門は、「新在家門」と言われていた。江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」に例えらえれて、蛤御門とよばれるようになったそうだ。

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蛤御門・浮出絵付駒札

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6,清水谷家の椋(むく)

この辺りには清水谷家という公家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」と呼ばれている。樹齢は300年といわれている。苑内でも数少ない椋(むく)の大木。

清水谷家(しみずだにけ)は、藤原北家閑院流西園寺家の支流にあたる公家・華族だった家。公家としての家格は羽林家。華族としての家格は伯爵家[1]。(ウィキペディア「清水谷家」より)

1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)の時、長州藩で遊撃隊の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討ち死にしたとも言い伝えられている。
<案内援用>

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清水谷家の椋・浮出絵付駒札

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7,枇杷殿・西園寺邸跡

地図ではこの二か所を()でくくっていたので、ひとつとみているのだろう。

琵琶殿跡

このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経から三男仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。1002年(長保四年)以降、藤原道長と二女妍子の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、1009年(寛弘六年)には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が等邸で仕えたといわれます。1014年(長和三年)、再び内裏が炎上し、その後三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したおいいます。(案内看板より)

この辺りには、歴史的にも文化的にも重要な建物が立っていたのだろう?

京都御苑の中でも広々した緑地のエリアだ。
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西園寺邸跡

西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代の公卿西園寺公経が今の金閣寺の地に別荘北山堂を造った際、妙音天あるいは妙音弁才天といわれる音楽神を祀る妙音堂を建てられたといわれます。この地へは、1769年(明和六年)に移されたといわれ、明治になり西園寺家が東京へ移った後は、1876年(明治十一年)、以前の神仏混交の作法を改め、地名の白雲村に因み、白雲神神社となりました。旧邸内は、西園寺公望が私塾「立命館」創設地でもあります。(案内看板より)

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西園寺邸跡・浮出絵付駒札

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8、出水の小川

最近まで御所には防火等のための「御所水道」がひかれていました。明治に開かれた琵琶湖疏水を三条蹴上で分水した専用水路です。1981年(昭和56年)御所周りの流路「御構水(みかわみず)」から導水して作ったのが「出水の小川」です。長さ110m深さ20cm。川底は苑路と同じ琵琶湖安曇川の石を敷いています。1992年(平成四年)の御所水道閉鎖により今は井戸から地下水循環濾過して流れを維持しています。(案内看板より)

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出水の小川・浮出絵付駒札

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出水通り

この出水の小川の近くの京都御苑の入り口近くから西に、出水通りが通っている。この通りの名前は、出水の小川からきているのだろう。
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9、賀陽宮邸跡(かやのみや)

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賀陽宮跡・浮出絵付駒札

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10、閑院宮邸跡

ここには、展示場があり、大晦日のこの日は休館していた。

 閑院宮(かんいん の みや)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に直仁親王(東山天皇第六皇子・中御門天皇弟)が創設した宮家。(ウィキペディア「閑院宮」より)

京都御苑閑院宮

京都御苑閑院宮

11、九条邸跡

九条家(くじょうけ)旧字体(九條家)は、藤原北家の嫡流の一つである公家・華族。公家としての家格は摂家[2][1]、華族としての家格は公爵家[3]。近衛家と並ぶ五摂家の双璧だった家で同じく五摂家の二条家と一条家は九条家の分家にあたる[4]。 (ウィキペディア「九条家」より)

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九条邸跡・浮出絵付駒札

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