広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像を見ることができる。 2019(31) 0210

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広隆寺

真言宗系単。「蜂岡寺」とも呼ばれたり、このあたりが太秦の地にあるからか、「太秦寺」とも呼ばれたり、平安京ができる前から、この地に移住していた、そして太秦と呼ばれる謂れともいえる百済系渡来氏族「秦(はた)氏」の氏寺でもあり、「秦公寺(はたきみでら)」とも呼ばれている。秦氏とは関係が深いようだ。

太秦(うずまさ)」については、いろいろ興味深いところがあるのでまた今度。
建立は「書記」によれば、推古天皇11年(603年)とあるから、平安京ができる前からあった。しかし、初めはからこの地にあったかどうかは、わからないようだ。有力な説では、北野天満宮近くにある平野神社付近に創建され、平安京遷都のあとにこの地に移ったという説だ。

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三条通り面して、前を嵐電が走っていた。

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嵐電太秦広隆寺」駅はすぐそば。

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太子殿

広隆寺の歴史の古さは、聖徳太子とも関係があったというこからわかる。
平安京に遷都するまえの、このあたりがどのような風景だったかたは、興味がある。

秦河勝聖徳太子に仕えた。

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新霊宝殿

広隆寺といえば「弥勒菩薩半跏思惟像」有名だ。足組をして右足を左足に乗せて、おり曲がった右足の膝に右ひじをついて、右手の薬指は右の頬(ほほ)近くで曲がり親指とで円をつくるようにしている。表情は半跏思惟とあるように、目を半分つむって、うっすら微笑んでいるようだ。線の細い繊細な感じの像だ。他ではあまり見かけない。国宝第一号だ。教科書で何度か見かけた記憶がある。「新霊宝殿」で見ることができる。

ja.wikipedia.org

 

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残念ながら写真に撮ることができなかった。

拝観料を支払い、そのまま進むと、今風の造りの寺社風の建物があった。自然とその建物に入るように通路が作られていた。

建物の中は、広いそして薄暗い空間だった。ちょうどロウソクの灯りを思わせる薄暗さ。光による劣化を防ぐためかと思う。

その建物の壁に沿ってズラッとと何十体も仏像が祀られていた。博物館と見紛うほどだった。

そして奥の壁側の中心に「弥勒菩薩半跏思惟像」が祀られていた。一番スペースも広かった。

入ってすぐに目にしたのがたぶん十二天画像だった。説明書きがとても見にくかった。像が置かれている台座より少し上に欄干があり、その向こうにある説明書きが欄干と重なって読みにくかった。また、説明書きがあっても、暗いところのに暗い面に黒い文字で書いてあった。白いのがあるかとおもったら、色紙のような紙に筆書きで簡単に書いてあるだけだった。

説明は抜きで、像の貴重さを感じろということだろうか?

十二天画像像は、武器を持った厳つい顔をした像だ。それがズラッと並んでいた。厳つい像を見ていると、自分の思う仏教とは違う感じがした。仏教ができた時は、仏教を守るために、武装していたのか?信者には兵士が多かったのか?と考えた。

仏教の像には時に怖い表情の像がある。仁王もそうだ。

 中央の「弥勒菩薩半跏思惟像」からは、吉祥天など穏やかに表示の像が並んでいた。

そして、「弥勒菩薩半跏思惟像」の向かいには高さ3m以上ある像三体あった。千手観音像が三体かな。三体とも手が多くあった。時とともに手が取れていったのだろう。一体だけたくさん手をつけている像があった。向かって右の千手観音立像は、たくさ手が出ていた。高さは2.6mほどある。その前で、下から手の数を数えた。暗いので数えづらかった。説明を見ると左右21本ずつあるようだ。合計42本。

千手観音について調べてみた。手を合わせる2本を除いて40本。それぞれに25の救済する手があるようで、40本×25で1,000になるようだ。

少し気になる点があったが、拝観してよかった。