正面通って面白い名前だと思った。
特に有名でもないが、興味深い。
正面通の由来は方広寺の大仏殿の前から続く通りだから。
東端が大和大路通、西は天神通まで。
西本願寺にに行ってみると
本願寺は、信長との長い戦いの後、講和で大阪天満を退去した。
その後、今の土地を秀吉から寄進されることになるが。
信長と講和し、門主顕如が退去を約束するが、長男教如は残り、顕如は講話違反と問わることになった。
このときに、この親子の関係にひびが入り始めたようだ。
准如の如春(教如と准如の母)が夫の顕如の遺志にそうために秀吉に働きかけて、
これにより教如と准如の関係は、修復できないヒビが入ったのだろう。
秀吉の次に天下をとった家康もそのことは承知していただろう。
関ヶ原の戦いの後、当時の門主准如が関ヶ原で西軍ついたことを理由に、江戸幕府は隠居させられていた准如の兄の教如を門主にしようとした。
しかし、宗教勢力を弱める効果があると、新たに教如に土地を与え、事実上本願寺を東と西に分離させた。
それまでに分裂の動きが出ていた。
幕府としてもやりやすかったと思う。
信長を梃子づらせた本願寺一派を弱体化させることができた。
冒頭にかいたが、正面通りは西本願寺と方広寺を結ぶようにあったと思われる。
そこで江戸幕府は正面通を分断するように東本願寺そして東本願寺渉成る園(枳殻邸)を作らせた。
ここにも、豊臣と徳川の争いの痕跡があるかのようだ。
西本願寺の御影堂門
境内から御影堂門と総門。総門から正面通が東に伸びている。
総門(堀川通を挟んで)
正面通から総門を通して御影堂門が見える。
正面通を東に進むと、突き当たりる。
東本願寺あたり
ちょっとずれている。
さらに東こ行くと
ここは正面の入り口に行き当たる。
高瀬川にかかる「正面橋」
さらに東へ鴨川にかかる「正面橋」
川端通を渡り、正面通を東へ。
道が広くなり
耳塚を右手見ながら歩くと
豊国神社に到着。
かつてこの辺りは方広寺の境内だったあたり。