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2月の初めに京都に行った。ちょうど中国の春節の頃で、通常なら京都は混雑しているはずだった。が、コロナウィルスのこともあって中国や海外からの観光客が減ったのだろう。それとも少し早かったからか、とても空いていた。
この日の散歩の距離は6km前後、久々の京都、フラフラと気の向くまま歩いた。
◆宮川町・恵比寿神社
京都に着いたのは、いつもより早く10時前だった。そのため空いていることに違和感はなかった。祇園四条駅から歩き出した。
「京都異界紀行」に架かれていた安倍晴明に関係のある荒辰大明神と新道小学校近くにあるという「清円寺」「晴明社」あとの地のあたりを見に行ってみようと歩いた。「晴明社」あたりには鳥居しかないようだが、地元の人はそれを「セイメイさん」といっているようだ。
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五花街のひとつ宮川町を歩いて角を曲がると神社が見えた。これが荒辰大明神かと思ったが、「恵美須神社」だった。少しうろうろしたが「荒辰大明神」を見つけることができなかった。
そして、新道小学校を回って、「晴明社」のあたりに稲荷社の鳥居を探しに行った。そのあたりだろうという所はわかったが、鳥居を見つけることができなかった。
京都は小学校の整備が早かったようだ。有力者が力を入れて小学校の開校に力を入れたおかげのようだ。京都の小学校の歴史を調べてみると面白そうだ。
宮川町
◆愛宕念仏寺元地碑
愛宕念仏寺の元地の碑があった。調べてみると、大正時代までここにあったようだ。今の愛宕念仏寺の近くに化野念仏寺がある。これを見た時、化野念仏寺と勘違いしかけた。
愛宕念仏寺は
8世紀中頃、称徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建。
平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたらしい。すでに荒れ寺となっていた上に、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失。廃寺同然を、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗に属した。 この際いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。1922年それらを移築して現在地での復興を目指すが失敗。あまりの荒れように、1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝も、引き受けるのをためらったという。それを清水寺貫主・大西良慶の「それだけ傷んでおれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、おまえは復興者、復興者やといってもらえる。わしも手伝ってやるから」[2]の激励で復興に取りかかった。以来、仏師として全国を飛び回る傍ら、本堂、地蔵堂、仁王門などを整備した。 素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まったのは、1981年。当初は五百体が目標だったが、10年後には千二百体に達した。 (ウィキペディア「愛宕山念仏寺」より)
◆六波羅蜜寺
そして、六波羅蜜寺へ向かった。
六波羅蜜寺に向かう松原通りも空いていた。この道をずっと行けば、清水寺に辿りつく。
六道の辻も
六波羅蜜寺でも、境内はそこそこ人はいた。
◆八坂通りから東大路
八坂通り。法観寺の八坂の塔が見える。
東大路も歩道も空いていた。
◆八坂神社
そして、混雑しないことがなかった八坂神社も、比較的空いていた。
・西楼門
この階段は、いつも混んでいる。10:45頃。まだ少し時間が早いのか?
・境内参道
門を潜って、境内も。屋台はまだ準備中のところもあった。まだ少し時間が早いのかな。
・朱色所
いつも長い行列ができている御朱印所の前も人影はなかった。中の人にはたくさんの受付の人が窓口にいたが、手持ち無沙汰な感じだった時
・本殿前・南楼門
いつも人でいっぱいの本殿前のあたりも、空いていた。
・忠盛燈籠
・悪王子神社
素戔嗚命(スサノオノミコト)の荒御霊(アラミタマ)を祀る。
八坂神社内をゆっくり見て周ることができた。
つづく・・・・
◆地図
この日は、ゆっくりと散歩できた。いつまでもこんな状態でなく、コロナウィルスの問題が解決して、また以前のような混雑した京都にならないと、今の京都は維持できないかもしれないように思う。