熊野詣
熊野詣は、和歌山県田辺市にある熊野本宮大社と新宮市にある熊野速玉大社、那智勝浦町の熊野那智大社の熊野三山に詣でること。
苦しい道中を経て、詣でることで、前世の罪を浄め、現世の縁を結び、来世を救済することができるとされ。
「熊野は蘇りの地」とされた。
熊野の神は、神道でも仏教でもない、第三の宗教のような存在であるようだ。
「浄不浄を問わず、貴賤かかわらず、男女をとわず」受け入れてくれる。
熊野詣は、上皇などの貴族から武家そして庶民にも広がり「蟻の熊野詣」と言われるほど、熊野詣は広まった。
自分の布教活動に不安を抱いた時宗の開祖一遍上人も、熊野詣をし、自らの進み方を確信した。
それゆえか、多くの人が熊野に詣でた。
苦しい思いをして詣でる方がご利益が大きいとも言われた。
熊野詣でには、体の不自由な人も命がけで詣でたそうだ。
多くの古文書で、熊野詣向かう体の不自由な人、命がけで向かう人のことが書かれていたそうだ。
かつての上皇たちは、大勢の人を連れて、京の都から往復一か月、百七十余里の行程。紀伊山地の険しい山並みをこえて詣でた。
もともと熊野は、温暖と多雨が結びついて、山が深く樹林が天をおおってくろぐろ生い茂り、自然の条件そのものが幽暗な感じをひきおこすように揃っていた。にんげんが死んでから行く冥府のような雰囲気が立ち込めていた。
(藤原定家の熊野御幸より)
上皇たちの熊野詣は「熊野御幸」。
天皇は熊野詣をしていない。
平安末期の上皇の熊野御幸は、鳥羽離宮から出て、
淀川を下り大阪の天満橋近くの八軒茶屋・渡辺津で陸に上がる。
第一の王子窪津王子(坐間神社行宮)に参って、
熊野街道を南に下る。その後も九十九王子を参りながら、熊野街道を下った。
そして口熊野の田辺から紀伊山地に向かう中辺路を通って、熊野本宮大社に向かったようだ。この路を中辺路(なかへち)という。
中辺路は他の熊野参詣道に比べて比較的ゆるやかな道だったのだろう。
上皇の熊野御幸の公式の道だった。
今でも多くの王子が残っている。
口熊野の田辺から、まっすぐ海沿いを下って行く参詣道もある。
この道は大辺路(おおへち)。
田辺より先(南)は山が海にせり出しとっても険しそうだ。
中辺路と大辺路あるのであれば、
小辺路(こへち)もある。
小辺路(こへち)は、高野山からなので、とても険しい。
他にも大峯奥駈道(おおみねおくがけどう)、これは吉野から熊野山地の大峯山など険しい山の中を通る。修行僧向き。
そして、伊勢路がある。伊勢路は京から大回りになる上に、こちらも難所がある。
熊野御幸した回数の多い上皇は?
平安末期頃、当時の最高権力者の上皇が何度も、熊野の地にある熊野三山への御幸をした。
10世紀の宇多上皇から13世紀後半の亀山上皇までの間に、100回以上熊野へ御幸していた。
特に多かったのは、12世紀の平安末期の白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇の4人だ。この4人は、後白河上皇からみると、白河上皇は曾祖父、鳥羽上皇は父、後鳥羽上皇は孫。同じような名前の上皇が近い時期に、上皇になり、権勢のトップに立った。
この4人の上皇はの時代は、武士台頭がで権力構造が大きく変化しつつある時だった。
平安時代に隆盛を極めた藤原氏の天皇家へ影響力が衰え、白河天皇が藤原氏との関係を断ち天皇家の権勢の復興を企てた、その間に意に反して平家の勢力が徐々に拡大し、「平家にあらずば人であらず」と言うほど天皇家を凌ぐの隆盛を迎え、そして衰退し、壇ノ浦の戦いで滅び、鎌倉幕府が成立、そして承久の変で、天皇をはじめとする貴族から、武士に権勢が移る頃までの間の上皇たちだ。
何故か、この時の上皇達は熊野への御幸を頻繁に行った。
この時代で熊野への御幸した回数が一番多いのは、後白河上皇だ。
後白河上皇のころが、一番「争い」が多く、源氏が都を追われたのも、源氏が平家を倒したのも後白河法皇の頃。同時に天皇家でも争いがあった。
後白河上皇は、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では西田敏行さんが演じる。
熊野へ御幸した上皇のトップ4
1位、後白河法皇 33回。
2位、後鳥羽上皇 28回。
3位、鳥羽上皇 23回。
4位、白河上皇 12回。
後白河上皇
この上皇は、本当は天皇になることができないと思われていた。それほど、評判が良くなかった。
後白河上皇は鳥羽上皇の第四皇子として生まれた。
皇位継承可能性はほとんどなかった。気軽な身分なので、遊興に耽った。父の鳥羽上皇からは、即位の器量ではないと見られていた。
近衛天皇が崩御し、後継者選ぶ中、しかたなく、自分(後白河上皇)の子供(のちに二条天皇)が天皇に即位するまでの中継ぎで天皇になった。が、
結果的には、権勢を握ることになった天皇(上皇)だった。
自分の息子より即位に不適とされた人だった。
天皇に即位した二条天皇とは対立したり、
平清盛の怒りを買うようなことして、院政を停止させられるなど、問題の多い上皇だったのではないかと思う。
好き勝手に生きた人だろうか?
そんな上皇にも、熊野に御幸して、償いたいことがあったのではないかと思う。
これは、保元の乱。
兄の崇徳上皇との争い。
敗れた崇徳上皇は、讃岐に島流し。
保元の乱に負けて、讃岐に島流しに合った崇徳上皇は、京都へ戻ること強く求めながら求めながら、かなわず、(朝廷からは無視された)讃岐で亡くなった。その最期の様子は、すごかったようだ。
崇徳上皇が讃岐で亡くなった後、京都では、延暦寺の強訴、大火や陰謀の企て、上皇の身近な人が相次いでなくなるなど、不吉なことが相次いだ。
これを崇徳院の祟りと京都の人は崇徳院の祟りを恐れた。
それ以上に、後白河法皇は恐れただろう。
その祟りを恐れて、後白河上皇は、33回も熊野へ御幸したのだろう。
天皇家にとって、崇徳上皇は気になる存在だったのだろう。崇徳上皇の没後700年後、明治への改元にあたって、崇徳上皇の魂は、京都に戻ることができた。
それが、白峯神宮だ。
この時代は、親戚同士が争い殺しあった時代だった。
保元の乱は、平家と平家、源氏と源氏、藤原と藤原が戦った。
平治の乱は、平家と源氏の戦いだった。
どれも、後白河法皇の頃に起きた乱だ。
熊野三山と京都三熊野
熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社を合わせて熊野三山という。
特に、後白河法皇は、生涯33度も詣でたのは前述した。
今も熊野行くには、大阪からでも4時間程度。東京から新大阪をすぎ岡山ぐらいまで行ける時間。交通手段の発達していない時代、当時は、今以上に京都からは熊野三山の地は遠い。往復で1ヶ月。
生涯33度も、熊野へ御幸した後白河上皇は、京都に熊野大神を勧請した。
熊野若王子神社・新熊野神社だ。
熊野神社は全国に三千か所以上あるようだ。京都市内には数社ある。
そのうち、京都三熊野と呼ばれる熊野神社がある。
京都熊野神社・熊野若王子神社・新熊野神社の三社。
そして、熊野三山は、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社。
京都三熊野が熊野三山にどれに相応するのだろうかと思っていた。
京都熊野神社で、聞くと、特にどこの三熊野の神社がどこの熊野三山の神社に相応するということはないとのことだった。
しかし、ウィキペディアのその京都熊野神社の記事に以下のような記事があった。
京都には京都三熊野といわれる神社があり、それぞれ新熊野神社は熊野本宮大社、熊野神社は熊野速玉大社、熊野若王子神社は熊野那智大社というように熊野三山に対応している。(ウィキペディア「熊野神社 (京都市)」より
確かに、京都熊野神社の境内に、神倉神社があった。神倉神社は新宮の速玉大社の元宮で、コトビキ岩があるところ。熊野速玉大社で「前世の罪を浄め」。
熊野若王子神社は、熊野那智大社。「現世の縁を結ぶ」
新熊野神社は、熊野本宮大社。「来世を救済する」
となるのか?
新熊野神社には、京の熊野古道もある。
つづく