随心院(ずいしんいん) 小野小町ゆかりの地 2019(01)0504 

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JR山科駅から歩いて、山科本願寺跡を散策したあと、醍醐寺を目指して歩いて行く途中で、随心院も立ち寄ることにしていた。
この日(5月4日)は、京都非公開文化財特別公開(【特別公開】奉祝 天皇陛下御即位「春期京都非公開文化財特別公開)期間4月26日~5月6日の期間であった。

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随心院

随心院は、真言宗善通寺派の大本山。

真言宗が明治40年(1907年)に解消された時、山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立した。小野派が今の善通寺派となった。

所在地は京都市山科区小野御霊町35。小野が付く地名のこのあたりは

「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」の「宇治郡小野豪郷」に相当し、小野氏の栄えたところであり、醍醐天皇陵東には小野寺と称する小野一族の氏寺の遺跡が近年発掘された。(「化粧の井戸」案内看板より)

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小野小町

随心院は小野小町とゆかりが深い。元は小野小町の邸宅という伝説がある。小野小町は六歌仙のひとりであり女房三十六歌仙のひとりでもある。絶世の美人といわれているようだが、小野小町という絵や彫刻は存在しないようだ。

小野小町は、生年不詳。小野篁の孫ともいわれている。化粧井戸の説明では小野篁の孫であると書いてある。

ウィキペディアで調べてみると、出羽郡司の小野良真の娘か?小野篁の娘か?小野滝雄?の娘ではないかと書いてあった。はっきりした文書などは残っていないようだ。

また、出身は秋田県湯沢市ともいわれているが。もし、小野良真の娘であれば、あり得る。この説から、お米の品種の「あきたこまち」の名前は生まれたようだ。

いずれにしろ小野小町に関する資料は極めて少なそうだ。しかし、これだけ有名というのはどいうことだろうか?

六歌仙(ろっかせん)とは、『古今和歌集』の序文に記された六人の代表的な歌人のこと。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主の六人を指す。ただし「六歌仙」という名称そのものは後代になって付けられたものである。(ウィキペディア「六歌仙」より)

女房三十六歌仙(にょうぼうさんじゅうろっかせん)は、鎌倉中期に成立した『女房三十六人歌合』に歌を採られた女性歌人三十六人を指す。(ウィキペディア「女房三十六歌仙」より)

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小野小町の百人一首にある

小野小町の百人一首にある「はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」有名だ。随心院にはこと句を書いた石碑があった。

この歌は少なくとも一度は聞いたことがあるはずなのだが、石碑に書かれた歌の最初のところは、なんとかわかった。その次がわからない。達筆で読めなかった。係の人に聞いて思い出した。

この歌は、絶世の美人だとちやほやされている自分も、いずれは年老いてしまうのなだろうという儚さを歌ったようだ。ネットで説明を読んでみると、それぞれの句の音韻に、別の意味も含ませたなんとも意味深い句だということが分かった。

 

随心院には小野小町にまつわるものが多かった。ほとんど撮影ができないが、ここは撮影していいとのことだった。小野小町の生涯を4つに分けて描かれた図だ。
右から生誕、饗宴、伝承、夢幻。色鮮やかで小野小町のイメージさせられる。

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文塚

小野小町にあてられた恋文を埋めたという文塚が随心院の裏にある。昔は思いを伝えるために書かれた恋文には思いがこもったものであり、粗略にあつかうと相手に恨まれたり祟られたりするのではないかと考えがあったようです。

小野小町に寄せられたたくさんの恋文がここに埋められているようだ。

随心院を出て塀沿いを歩いて、裏あたりの、木々が茂る林の中にあった。

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小野小町化粧井戸。

「この化粧の井戸」には「小野随心院、観修寺の東なり、曼荼羅寺と号す、また、小野水、門内南の藪の中にあり、此の所は出羽郡領小野良実の宅地にして女小野小町つねに此の水を愛して艶顔を粧ひし」(「化粧の井戸」案内看板より)

 

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小野小町の老衰像がある。補陀洛寺(小野寺)

小野小町の終焉の地や墓所についても、諸説ある。日本中に小野小町の供養塔など、小野小町ゆかり地があるようだ。

京都の市原にある補陀洛寺には、人もうらやむ美貌の持ち主の小野小町のあまりにも変わり果てた老衰の像と風葬された亡骸から生えたたというススキや供養塔などがあるようだ。絶世の美貌をそなえ、天皇の女官までした小野小町の最期の話としては、印象的だと思う。「吾れ死なば焼くな埋むな野にさらせ痩せたる犬の腹を肥やせや」と言い辞世の句を残しているようだ。この句にあるように、風葬も本人の遺志によるものと言われている。

補陀洛寺は叡山鉄道の鞍馬線の「市原」駅近く。市原かつて風葬地だった。

まだ、行ったことがないので、どのようなところかはわからない。

 

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小野小町と深草少将

小野小町といえば、深草少将が百夜通い(ももよかよい)の話も有名だ。小野小町の美貌に心を奪われた深草少将は小野小町にしつこく言い寄ってって来た。この深草少将を疎ましく思った小野小町は深草少将に無理難題を投げかけた。百夜通えば結婚すると。深草少将は通いつめた。そして、九九夜通い、思いが叶う日。この日は雪の降る日で、雪にうまり凍死したという話である。

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深草少将の怨念(菊野大明神) 法雲寺

深草少将が百夜通の時に座っていた石があるようだ。それが今は菊野大明神の御神体になったと言われている。あと一夜という時に思いを果たせなかった深草少将の怨念が縁切り神となり、祈願すれば悪縁を切ってくれる。悪縁と言っても男女関係だけでなく、友人関係、仕事関係、いじめや、ストーカー、病気などがある。悪縁を除いて良縁を得ることができるとのこと。

法雲寺にある。境内には豊川稲荷もあり、火災除け、厄除、災難除けなど「縁のみならず、家業繁昌、家内安全、無病息災にも霊験ありて 世人に示し御利益を授くべし」とのこと。

 

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 境内で撮った写真

この日は雲ひとつない晴天だった。下の写真の左手のあたりが梅林。

 

散歩でふと小野小町と出会ったような。ゆかりの随心院の文化財の特別公開に行ったので、そのことを書けばいいのかもしれない。それより小野小町の不思議さが興味を惹いた。

有名だから、引っ張りだこになった小野小町。

これは、絶世の美人という伝説と、彼女の句が秀逸で百人一首のなかでも、自分のようなものでも少しは知っているほど、広く知られてるからだろうか?

ネットあっちこっち調べながら書いたため、切り貼りのようになったかもしれない。

 

 

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参考

ウィキペディア「小野小町」

ウィキペディア「あきたこまち」

ウィキペディア

随心院「化粧井戸」の案内看板

真言宗 大本山 隨心院

菊野大明神・豊川大明神|浄土宗清水山洗心院法雲寺

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