山科本願寺跡を探して 2019(01)0504

★★★目次★★★

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 ↓蓮如上人御廟所

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蓮如上人と山科本願寺

法然上人が浄土宗を開宗、弟子の親鸞聖人が浄土真宗を開宗した。

それぞれの宗派で分派して色々な教団がある。

この二つの宗派は、先行の仏教宗派による迫害を受けて、寺院が破壊されたりした。

1321年(元享元年)第三世覚如が、親鸞聖人の祖廟の継承の正当性を主張し、「大谷影堂」を寺院化して「本願寺」と称するようになった。ただ、天台宗の青蓮院の末寺だった。同時に、親鸞聖人の系譜を継ぐ佛光寺を拠点にする教団や関東などの教団が次第に本願寺に対抗するようになってきた。

ちなみに、青蓮院は親鸞聖人が得度を受け、後々支援を受けた「愚管抄」を記した慈円和上のお寺。浄土真宗と青蓮院は縁深い。青蓮院と親鸞聖人の師匠の知恩院が隣接するようにあるのは、何か不思議だ。

1465年(寛正6年)浄土真宗の大谷本願寺が、比叡山の僧兵により破壊された。

蓮如上人は近江堅田に逃れ、東海、北陸と伝道して回り、福井県の吉崎御坊を構え、1478年に山科に本願寺を作り始めた。

当時、浄土真宗他派の佛光寺教団が隆盛していて、本願寺は衰退していた。蓮如上人はその本願寺を立て直した「中興の祖」と言われている。

ここに諸国の支持が集まり、1483年(文明15年)8月22日に完成した。今までの伝道活動の結果でもあるのだろう。各地から信者が集まり商家や民家が建ち並び寺内町を形成し、当時の京の町に劣らないくらい繁栄したようだ。

そして1532年(天文元年)8月24日、法華一揆により破壊された。50年程度でなくなってしまった。室町時代の中期から後期にかけての頃、世の中は乱れ、自衛すると必要性と民衆に独自性が芽生えた頃と言えると思う。

その後本願寺は点々とし、大阪そして京都の今の西本願寺に移ってきた。その後、東本願寺ができた。

 

山科本願寺の当時どのようなところか、当時を忍ばせる何かないかと、山科に行ってみた。

 

今、本願寺は東と西に分かれている。

ここにも、東と西があった。西の浄土真宗本願寺派本願寺山科別院と東の真宗大谷派山科別院長福寺があった。蓮如上人御廟所があり、この3箇所を線で結ぶと二等辺三角形のようになる。その三角形の中心には蓮如上人銅像跡がある。

 

 

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蓮如上人銅像跡

昭和9年に作られたようだが、昭和19年に戦争に拠出された。地元の人は、「蓮如さんが戦争に行った」と言っていたようだ。

今は、2階建の家ほどの高さの台座の石積みと門柱と銘板をつける石と池に渡すような石の橋があった。

住宅地の真ん中にあった。

一面に雑草が茂っていた。

像もなく、銘板も外され、魂が抜けたような感じだった。

しかし、台座もそれだけで十分存在感のある大きさだった。

下の写真の上に蓮如上人の像があったようだ。

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ここはかつては、立ち入り禁止の札があったようだが、その札も今はなく、あったことも知らなかったので、敷地内に入ってウロウロと写真を撮っていた。
すると、前の家の前にいた年配の女性が声をかけてくれた。
蓮如上人の像ある時の写真があるので見ますかと言ってくれた。
お願いすると、家から白黒の古い写真を持ってきてくれた。
女性のご主人がいる時は、写真を見せて色々と説明をされているようだ。
自分のようにここに来る人も少なからずいるようだ。
写真を見せてもらうと、
今残っている台座の石積みと同じぐらいの高さの像が立っていた。

もし残っていれば、すごいだろうなと思った。昭和初期にこれほどのものが建てることができたのは、400年程度前の山科本願寺の繁栄ぶりを思わせるもののような気がする。

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蓮如上人廟所

敷地に入ると鬱蒼した感じで、住宅の中にあるとは思えない感じだった。木々に囲まれて凛とした雰囲気があった。

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このようにちゃんとあるのは、何か縁があるのだろう。

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真宗大谷派山科別院長福寺(東本願寺)
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訪れる人も少なく、時々境内を通り抜けていく人がいた。静かだった。

蓮如上人の像があった。

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入ったのは裏口からのようで、正面入り口は、今風の教団ぽかった。

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浄土真宗本願寺派本願寺山科別院(西本願寺)
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人気はなかった。

境内は人の気配はなく、静かだった。入ってよかったのかな?御朱印を口実に社務所に行った。特に入ってはダメということはなかった。その後も社務所の窓から見えるところで写真を撮った。

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蓮如上人御往生地

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ここには入らなかった。入っていいものかどうか分からず。呼び鈴を押すのも抵抗があった。

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山科本願寺土塁跡

蓮如上人御廟の裏(西側)を流れる安祥寺川を挟んである山科中央公園の中にある。
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山科本願寺 土塁跡 2019年(令和元年)5月4日(土)

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山科本願寺御寺内北西部土塁

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住宅街の中でこんもりあったので、ここだろうと思っていった。看板や標識はなかった。

 

山科本願寺御本寺跡

新幹線と国道が並行して走る歩道沿いに敷地の間の壁や電柱などに隠れるようにあった。

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山科本願寺土塁跡南西角

ここには石碑と山科本願寺の調査の内容が書かれた案内版があった。

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前にお米の自動精米器が置いてあった。
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この日はよく歩いた。

まだ、これからあるいて、醍醐寺まで行った。ほぼ山科区を縦断した感じだ。

 

 

参照

物語 京都の歴史―花の都の二千年 (中公新書)

物語 京都の歴史―花の都の二千年 (中公新書)

 

・ウィキペディア「浄土真宗」

・ウィキペディア「蓮如」

・ウィキペディア「本願寺」

・ウィキペディア「吉崎御坊」

ほか。