「蚕の社」は駅名にもなっている。
「蚕の社」嵐電の駅名にもなっている。
この駅までは、路上線路になっていた。
蚕養(こかい)神社鳥居は蚕の社の鳥居
上の写真先に信号がある。
その信号の近くに鳥居があった。
漢字が難しくて読めないが「蚕」かなと。
蛍と読めないこともないが・・・
「蚕」とすると、「蚕養(こかい)神社」となる。つまり「蚕の社」ということ。
鳥居をくぐってまっすぐ歩くと、「蚕の社」がある。
蚕の社
本名は「蚕の社」ではなく
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
横には、小さい石碑に「蚕神社」と書かれていた。
色々な名前のある神社?由緒書きは
先ほどの鳥居「蚕養(こかい)神社(蚕の社)」の事も書かれていた。
「養蚕、織物、染色の守護神である」と書かれていた。
太秦のことばの由来は
雄略天皇の御世、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が絹を「うず高く積んだ」ことから「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てた[4]。
(ウィキペディア「太秦」より)
元糺の森・元糺の池
「元糺の森」というのがあった。
境内に「元糺の池」と称する神池がある嵯峨天皇の御代に下鴨に遷してより「元礼」と云う(由緒書きより)
このあたり一帯は、平安遷都が行われるまで、木々が鬱蒼と茂っていたのだろう?
嵯峨天皇の御代までは、今は住宅地が立ち並ぶこの辺りが「糺の森」だったということか?
鳥居をくぐって、すぐに境内の案内図があった。
元糺の森には入ることはできなかった。
元糺の森の元糺の池の手前までは行けた。
池というが水はなかった。
涸れた池で写真を撮っていると、久々にやってきたという年配の女性二人組がやってきた。
昔この辺りに住んでいたようだ。
昔の話をしながら涸れた池を見ていた。
少し話を聞いてみた。
かつてはこの池には夏でも冷たい水がいっぱいで、この水に入ると、病気にかからないという話があったようだ。
この池からの流れは、南に流れ、神社の南は大きな池があったようだ。
今は住宅が立ち並んでいる。昔は、下鴨神社の糺の森のように鬱蒼とした森が広がっていたのかもしれない。
境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」と称する神泉があり、現在は涸れているがかつては湧水が豊富であったといい、現在も夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に良いとして信仰されている[8][9]。伝承では木嶋社の社叢を「元糺の森」、神泉を「元糺の池」と称し、下鴨神社の森が「糺の森」と呼ばれるようになる以前、元々は木嶋社の社叢が「糺の森」と呼ばれていたとする(ウィキペディア「木嶋坐天照御魂神社」より)
三柱鳥居 京都三鳥居のひとつ
そして、この池には、三柱鳥居がある。
この元糺の池の中には三柱鳥居(みはしらとりい、三ツ鳥居/三面鳥居/三角鳥居)が建てられている[8]。これは柱3本を三角形に組み、3方から中心の神座を拝することを可能とする珍しい形式の鳥居で[8]、「京都三鳥居」の1つに数えられる[2][注 1]。中央の神座は、円錐形に小石を積み、中心に御幣を立てて依代としたものである[9]。この鳥居の起源等は詳らかでなく、秦氏の聖地である双ヶ丘・松尾山(松尾大社神体山)・稲荷山(伏見稲荷大社神体山)の遥拝方位を表したとする説などがある。(ウィキペディア「木嶋坐天照御魂神社」より)
京都三鳥居は、以下の三鳥居。
1,蚕の社の「三柱鳥居:
2,京都御苑厳島神社鳥居
3、北野天満宮判氏社の鳥居
京都御苑の厳島神社の鳥居
京都御苑 厳島神社鳥居。
少し変わった形の鳥居。
平清盛が建立した唐破風の鳥居。
2022年12月31日撮影
拝殿
蚕の社の鳥居をくぐると、まず目に入るのは拝殿。
参拝する人は絶えず。ぽつぽつと鳥居をくぐり参拝に来ていた。
本殿
本殿の横には東本殿がある。この東本殿が蚕養神社の本殿のようだ。
末社
静かな境内
周辺は静かな住宅地で、外から車の音などの騒音も聞こえず、神社の境内に入ると、元糺の森の木々の鳥たちの声が絶え間なく聞こえ、人里離れた感じをした。
神社の境内は外の世界と隔絶した空間が広がると思うことがある。
とても気持ちが落ち着く。
地図