★★★目次★★★
- 水に流す
- 高瀬川
- 高瀬川は複数ある
- 高瀬川沿い散歩(高瀬川取水口から)
- 一之舟入
- 四条あたり
- 五条の手前あたり
- 七条通りあたり
- 八条手前
- 八条、九条、東寺道へと続く。
- 終点は十条手前。
- こうして高瀬川は鴨川に注いでいく。
- 鴨川も、川幅はほぼ同じだが、四条あたりの雰囲気はない。
- 十条あたり。
- 東高瀬川・新高瀬川
- かつての高瀬川の終点
- 西高瀬川
- 水の都 京都
★★★★★★★★★
水に流す
どうも、遺跡や歴史ある神社仏閣より、人や物が行き来する道や川に興味があるようだ。
そこにこそ歴史があるように思えるから色々興味を持つのか。
高瀬川は以前から興味あった。
かつては、物流に貢献した。今は、それも昔の話。
地図で見てみた、どうもわからないので、いけるところを実際に歩いてみた。
歩くと、ネットだけでは、知ることができないモノを感じることができる。
今の高瀬川の役割は一部で観光のスポットとし、ほかは単なる川としての存在のようだ。
なぜか人は川とみると何かを捨てたい衝動にかられるのか、観光名所である四条あたりでも、目に余るゴミが川に投棄されているのをみる。この日も歩いていて、捨てられているゴミを見た。
物流としての高瀬川の役割は終わったかもしれない。そして、今や、不法投棄の場所かなと思った。
日本人の本質だと思う。「水に流す」ってよく言う。
いらないものは、川に捨てれば水が流してくれるとでも思っているのだろうか?
今回の本題から外れるので「グチ」はここまで。
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高瀬川
京都盆地で有名な川と言えば、鴨川、高瀬川、桂川だと思ってる。
桂川は京都の西の嵐山を流れ、鴨川は、東山の近くを流れる。京都の東西を流れる京都の川の代表。
高瀬川は鴨川の西側を流れている小さい川。
川の名前は、用いられる舟の高瀬舟に由来するようだ。
高瀬舟は河川や浅海を航行するための木造船である。 高瀬舟の文献資料上の初見は『三代実録』の886年(元慶8)9月16日の条で、近江・丹波両国でそれぞれ高瀬舟を造っているとある。[1] 室町時代末期頃の岡山県の主要河川(吉井川、高梁川、旭川等)で使用され始め、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。中世には船体が小さく、底が深く(高背)、近世には型が大きくなり、底が平たく浅くなった。帆走もしくは馬や人間が曳いて運行され、物資の輸送を主な目的としていた。 (ウィキペディア「高瀬舟」より)
この川は、桂川や鴨川とは違う。
人工の川だ。角倉 了以父子が開削した。
角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行った。地元京都では商人としてよりも琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。
角倉了以は豪商であった。自費で高瀬川を開削し、通行料や倉庫料を幕府と角倉の収益とした。
水運は、一種の利権とも言えるが、そこに目をつけ、実行できたのは、素晴らしいと思う。
高瀬川は複数ある
高瀬川は京都と伏見の間の物流を結ぶ目的があった。
高瀬川は3種類あるようだ。
一つは京都市内の繁華街木屋町沿いを流れる高瀬川。
十条あたりで鴨川に合流して、鴨川の対岸の東で東高瀬川が始まる。
昭和10年の鴨川の大洪水があったため、鴨川の川底が浚渫(しゅんせつ)されることとなり。川底が2mほど深くなった。そのため、高瀬川が鴨川に流れ混む場所が今のところに移された。そして、東高瀬川は鴨川から取水することが不可能になった。
もう一つが、西高瀬川。
桂川から別れ京都の西をあちこち通って、天神川と合流などして、鴨川と合流して、再び、桂川に注ぐ。
桂川にしても宇治川にしても、あと木津川と合流して淀川になる。
高瀬川沿い散歩(高瀬川取水口から)
京都の東を流れる鴨川の西を流れる高瀬川沿いを歩いた。
四条界隈の高瀬川沿いはよく歩く。
高瀬川はおそらく木屋町通りと二条通りの交差点より少し南へ、木屋町通を歩いたところにある「一之舟入」あたりから始まる。
高瀬川は、鴨川から分岐し鴨川と並行して流れている「みそそぎ川」から流れを取り込む。流れは、山縣有朋の第二の無鄰菴の下を通り、一之舟入に注ぎだす。
2022年10月1日撮影
二条通りから木屋町通り沿いを下ったところにある島津製作所創業記念館資料館の南のあたりから始まる。
角倉了以邸跡の石碑もあるようだ。
↓平成27年9月ころ撮影した。(二条通り近くの「一之舟入」。手前の建物は「島津総業記念資料館」がある。このあたりに、角倉了以の別邸があったようだ。
一之舟入
その南にある。高瀬川の出発点。一之舟入。
四条あたり
高瀬川は、三条、四条と流れて、五条と南に向かって流れていく。
↓今年3月頃高瀬川と木屋町
五条の手前あたり
こんな風景が、高瀬川界隈にはある。
↓今年1月頃に歩いた。
高瀬川にはこの小橋をよく見かける。
七条通りあたり
さらに南に行くと
こんな感じでも鴨がいた。
八条手前
JR高架手前で大きく東に曲がる。
八条、九条、東寺道へと続く。
終点は十条手前。
ここで鴨川へ方向を変える。
こうして高瀬川は鴨川に注いでいく。
取水口のあったあたりとは全く雰囲気が違う。
ここまでくると、四条あたりを流れる高瀬川とは、全く違った様子になる。
ただ水が流れているだけの水路。
味気ない。
十条は、伏見より少し北にある。この辺りは、阪神高速や大きな通りが走っている交通の要所。
鴨川も、川幅はほぼ同じだが、四条あたりの雰囲気はない。
↓今年8月ぐらいに撮った。四条あたりの鴨川
十条あたり。
浅く、浅いから流れも早目。
川の中で、浅いがゆえに、水が横に流れていたりりもする。
今の高瀬川は鴨川から分岐いて鴨川の西を流れ、最終的に鴨川に注ぐ。
東高瀬川・新高瀬川
鴨川から取水することができなくなった東高瀬川は、水の流れないコンクリートの水路。
川とはほど遠い様子。単に水のない空の水路。
大雨が降ったときの水路ように思える。
チョットがっかりした。
この東高瀬川という水路は伏見に向かい、琵琶湖疎水と合流して、新高瀬川となって、宇治川に合流する。
すぐ南には、阪神高速のインターがあって、味気ない。
東高瀬川と並行して東側に南北に水量が豊かな琵琶湖疎水が流れている。
ここはいい感じだ。
琵琶湖疎水は、伏見インクラインを経てさらに南下し、西への流れと南へ流れと分岐する。西への流れは東高瀬川と合流して新高瀬川と名を変え、宇治川に注ぐ。南へ流れは濠川となる。
東高瀬川は、その頃には立派な川になっている。
↓伏見インクライン。
↓東高瀬川に架かる大手筋通の橋。立派な橋が架かっている。
Googleマップでは、新高瀬川となっている。橋には「東高瀬川」と書かれている。
かつての高瀬川の終点
新高瀬川から細い水路が分岐して琵琶湖疎水からの流れの濠川と宇治川派流が合流するところに注いでいる。そこには、角倉了以の石碑が立っている。
石碑の近くに「伏見港と水路の変遷」の案内があった。これをみる高瀬川がかつては、琵琶湖疎水の濠川と宇治川派流に合流する所が、終点だったことがわかる。
この先には三栖の閘門がある。
西高瀬川
桂川から分かれて、市内を東に流れ、天神川と交差して、千本三条手前で南下し、四条通りを過ぎたあたりで西に向きをかえ、御前通り手前で南下し、京都市南区の鳥羽の「藤の花」で知る人ぞ知る鳥羽下水処理場の近くを流れ、最終的には鴨川に合流する。
西高瀬川を渡って東に進むと、鳥羽伏見の戦いの発端地の鴨川に架かる「小枝橋」がある。
この辺りでは、西高瀬川と鴨川は並行して流れている。
このから南で西高瀬川と鴨川と合流し、桂川に合流する。
水の都 京都
京都は水の都だと思う。京都盆地の地下には豊富な地下水がある。さらに、北山という豊かな水源があり、鴨川や桂川を生み、京都市街地の東と西流れている。琵琶湖疏水は、京都水を潤すよ血管のように、縦横無尽流れている。
注目するべきは京都地下水。この水量は琵琶湖に匹敵するほどあるようだ。琵琶湖の方が多少水量は多そう。
京都市地下水 推定211億m3という記事があった。2003年の記事だが。
琵琶湖の水量は 27.5km3。
1km3=10億m3だから。275億m3。
そして、あまり意味ないが、面積で琵琶湖と比較すると、京都市は面積では琵琶湖より広い。
京都市 827.82m2
琵琶湖 669.26m2
京都市は、広い。市街地だけでなく南は伏見、東は山科も含み、南西に長岡京の近くまで広がり、さらに北に広がり北山の多くは京都市に含まれる。
京都を歩いていると水の流れによく出会う。
水が豊かな街だと思う。
水の豊かさがあるから、京都に魅力があるだと思う。
東山を流れる白川の流れはいい感じだ。味わいがある。
三条通りから知恩院近くまで白川沿い道はいい道だ。
大阪も水の都というが、あまり綺麗な水だと思わない。大阪は淀川水系の下流になるから仕方ないかもしれない。
地図(高瀬川・東高瀬川・西高瀬川)