今出川通りを東に、鴨川を渡り、京大を右手に見ながらまっすぐ進むと銀閣寺に行き着く。
京大は、手前東大路通りとの交差点を過ぎたあたりから長く続く。
その交差点は、百万遍交差点。
百万遍交差点過ぎたところに百万遍知恩寺がある。
百万遍と言う名前はよく聴いたことがある。どんなところか?と思いつつも、知らな間に何度か通ったことがある場所だった。
東大路通り沿に西門もある。
西門の向こうは東大路通り。
百万遍?
百万遍知恩寺のある所は、百万遍と言うのは正式な地名ではないようだ。
百万遍交差点は、百万遍知恩寺の通称に由来するようだ。この辺りは田中門前町。
百万遍知恩寺は、今の相国寺のあたりにあったようだ。
「百万遍」の名は交差点の北東に位置する知恩寺の通称「百万遍」に由来する。元弘元年(1331年)に疫病が大流行したときに、知恩寺の八世善阿空円上人が百万遍念仏を唱えたところ疫病が収まり、後醍醐天皇から百万遍という号を賜ったと伝えられている。
正式な地名ではないが、交差点の周辺の地域も「百万遍」と呼ばれる。(ウィキペディア「百万遍交差点」より)
百万遍知恩寺
西門から百万遍知恩寺に入った。
階段を上がって、正面にある建物が本堂だと思って歩いた。
正面に見えた建物は、本堂かと思ったが、釈迦堂だった。
もともとは、「賀茂の釈迦堂」とも呼ばれていたから、本堂と考えてもいいかと思ったりする。
上に見える階段を上がって左に、釈迦堂より立派な御影堂があった。今出川通りに面する正面の門である総門から入ると、正面に見えるのは御影堂。
御影堂(一番大きそうな建物だった。)
釈迦堂(本堂?)
御影堂から総門。総門の手前右手に阿弥陀堂がある。
勢至堂(知恩院にもある勢至堂)が御影堂の横にあった。勢至堂は法然上人にとっては重要な建物だとおもう。
百万遍知恩寺の遍歴
ウィキペディアによると。
百万遍知恩寺は、もともとは、今の相国寺のあるあたりにあったそうだ。
賀茂の河原屋・賀茂の禅坊・賀茂の釈迦堂と呼ばれtりた。
法然上人は度々この地に訪れていたそうだ。
法然入滅後、弟子が賀茂の河原屋をついで功徳院神宮堂と改めて、法然の御影を安置して法然を勧請開山第一世とした。
相国寺を作るとなり、
今の上京区元百万遍あたりに移り、応仁の乱で焼失したりして、
秀吉の頃に、御所の東隣になる寺町通り沿の梨木神社のあたり移り。
江戸時代に今の位置に移ったようだ。
百万遍知恩院の建物は江戸時代に作られたものばかりだ。
建て物も九棟が国指定重要文化財だ。
今、百万遍知恩寺のあるあたりの地名は、百万遍ではない。
知恩寺と知恩院
知恩寺と知恩院、どっちも知恩とつく、法然上人の浄土宗寺。
開山はどちらも、法然上人。知恩寺は勧請開山だが。
似たような名前で、遠く離れていなので、もめたのではないかかと思う。
いったんは、仲良くしようというよなことになったが、
後に本山争いが起きた。結果、知恩院が勝った。
知恩院は、昨年、大きな御影堂の落慶法要が行われた。
百万遍知恩寺の御影堂は大きいが、知恩院の御影堂はさらに大きい。
↓知恩院御影堂
人がこんなに小さく見える。
百万遍知恩寺の西を通る東大路通りを南下すると、八坂神社の手前あたりに知恩院新門がある。
もう一つの百万遍
上京区にもう一つ百万遍という地名があった。
上の地図のオレンジ色の印の所あたりだ。
百万遍知恩寺とどのような関係があるのか?知恩寺の移転によるものと言うことだが。元百万遍町からわりと離れている。一時は、千本通りのあたりまで移転したことがあってのだろうか?
京都の通りの南北の唄では、寺町通りに始まり千本通りで終わる。それくらい離れている。