甚兵衛渡船と尻無川水門【大阪市港区・大正区】 20231112

渡船

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旧淀川の大川が中之島で大川と江戸堀川に分かれ、再度合流する地点で安治川と木津川に別れ、安治川は西に進み大阪港へ、木津川は南下して、西区を横断して、西区と大正区と浪速区の境界で道頓堀川と合流する。そこで、尻無川が木津川から枝分かれして、大正区と港区の間を流れ大阪港へ、木津川は大正区と浪速区、西成区の間をさらに南下し、最終的に大阪港へ。

大阪市南西部は河川や運河などの水路が縦横に走っており、また河川舟運が盛んで架橋が困難だったため、古くから市による公営の渡船が多数運航されてきた。各河川・港湾への架橋進展に伴いその多くが廃止されたが、現在でも8航路が、主に大阪市建設局西部方面管理事務所により運航されている (ウィキペディア「大阪市の公営渡船」より)

photo.talk-turkey.com

大正区は川と海に囲まれた島のような区。出ようとすると必ず川か海を渡らないといけない。

 

木津川も尻無川も大川も船の往来が多く、橋をかけることが難しかったのだろう。

大正区には、港区や東隣の浪速区や住之江区そして大正区内に渡船が8か所ある。

橋はあるが、高い所をとおっていて、渡るには、高い橋までループの通路を上がっていかないといけない。

安治川も同じで、高速道路の橋はあっても人が歩いて渡ることができる橋はない。

安治川にも、港区天保山とUSJ近くの桜川を結ぶ渡船がある。

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安治川に河底を通る隧道もある。

大正区と港区を繋ぐ渡船は一つ。甚兵衛渡船に乗りに行った。

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甚兵衛渡船

尻無川に架かる人が歩ける橋は川の上流の大正駅近くにしかない。あとは国道43号線の高架道だけ。

橋の代わりに渡船が川の両岸の港区と大正区を結んでいる。

甚兵衛渡船場(港区側)

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時間前になってくると自転車が数台渡船場にやってきた。徒歩は自分だけだった。
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川幅はそれほどなさそうだが、船か橋がないと渡れない。
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大阪港方面
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尻無川水門。上流の方向。
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大正区側の乗船場
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船内。自転車で乗る人が多いので、椅子などはない。
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対岸の乗船場
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大正区側から、向かいは港区。
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尻無川水門

尻無川堤防をあるいていると、川に架かるアーチ状のものが見えてきた。
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尻無川

尻無川の堤防で子供頃よく遊んだ。

もう、半世紀以上前だ。子供ころは水門もなかった。

当時を景色はずいぶんと変わった。

堤防と思われるところを歩いた。

川側に今にも壊れそうな古い建木造の物が並んでいた。

その前にはわりと新しい感じの瓦が置かれていた。

船で運んできた瓦をここでベルトコンベアで上げてここに置いているのだろうか。

今でも稼働しているかはわからない。

この建物意外にも瓦の会社の建物がいくつかあった。

日曜日なので、人は誰もいなかった。

大阪ドームが近い。

川の反対側は、住宅街。マンション群もあった。

 

古地図の尻無川

 元は松島公園付近の西区本田1丁目で木津川から南西方向に分流し、千代崎と九条の境を南下して、大正区の西方を通り、大阪湾に流入していた。堤防には櫨(ハゼ)が植えられ、紅葉の名所となっていた。尻無川と木津川の間の中州は寺島と呼ばれ、明治以降に松島遊廓が作られた。 当時の尻無川上流部は川幅18メートル(10間)程で水深も浅く、船の航行に不向きであったので、大正3年(1914年)から大正5年(1916年)にかけて改修工事を行い、下流の川幅を65.4メートル(36間)に広げ、川底を浚渫し、大正9年(1920年)12月には尻無川の中流であった千代崎付近と木津川・道頓堀川合流点とを結ぶ岩崎運河が開削された[2]。(ウィキペディア「尻無川」より)

中之島の銀橋のたもとに大阪古地図の案内があった。2019年6月23日に古地図を写真に撮った。

この地図には、大阪市の西部の港区や大正区も描かれていた。

下の赤丸のところも、尻無川だったようだが、今まもうない、青の点線を通っている。大阪古地図 尻無川周辺