粟田口 (京都 ・旧東海道最後の難所であり、刑場もあった)・粟田神社

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粟田口

吉川英治氏の「親鸞」を読むと、「粟田口」という地名が出てくる。

親鸞が九歳の頃出家得度を受けた青蓮院も粟田口の近くにある。青蓮院は、親鸞の頃、平安時代か鎌倉時代かけての頃、「慈円」という高貴な人がいた。親鸞もこの高僧から出家得度を受けた。

粟田口の僧正といえば 、天台の法門にも 、院や内裏の方面にも 、格別な重さをもっていた 。

この野原の部落には 、三条小鍛冶という名工が一頃住んでいて 、それから 、ここの池の水が 、刀を鍛つのによいというので 、諸国から 、刀鍛冶が集まって 、いつのまにか 、一つの鍛冶聚落ができていた。(「親鸞」吉川英治)

粟田口をウィキペディアで調べると、候補が沢山でてくる。公家の名前であったり刀工の名前であったりする。刀工というのは「親鸞」の中に「鍛冶聚落ができた」という記述があるのでなっとくできる。
 地図で見ると、「粟田口」というエリアは広そうだ。華頂山北側の地名には粟田なり粟田口がついている。東は地下鉄御陵駅の少し西に「粟田口名号碑」がある。そこから、華頂山を反時計回りで、知恩院あたりまで、「粟田」「粟田口」という地名が多くある。

↓粟田口名号碑。周りに木が茂っているので分かりにくい。

粟田口名号碑

↓青蓮院門跡の近くの神宮通沿に、ぽつんと、「粟田口」の説明の案内看板が立ってた。

粟田口

 

   

日岡(粟田口)峠

 昔の人は東海道を旅して、瀬田川を超え、逢坂山を越えて、最後の難所が、粟田口あたり。山科盆地から、京都三条に行くには、東山連峰と華頂山の間に低くなった谷をとらないといけない。先日歩いたが、ゆるい坂を上る。それほど急とは思わなかった。このあたりは、なんども掘り下げられていまの高さになったようだようだ。当時はそこそこ高かった上に、今のような大きな道路もなく道の両側から山が迫る薄暗い道だったのではないかと思う。

そして、このあたりは、江戸時代には、この地で磔(はりつけ)、獄門、火刑が行われた。刑場を望む山裾には、霊を弔い慰めるために、供養する供養塔が何期もあったようだが、廃仏毀釈や開発によって供養塔は、破壊されて、道路の側溝の蓋石や石垣に使われたようだ。その名残を思わせるところが道路沿いにあった。

粟田口刑場跡

粟田口刑場跡

粟田口刑場跡

 

   

 

粟田神社

粟田口と呼ばれるエリアは広い。

京の七口一つでもあった。

粟田神社は京の七口の粟田口にある。

京の七口の一つである粟田口に鎮座し、古くから旅立ち守護の神として崇敬を集めており、現在でも旅行に出発するに際し絵馬を奉納したり、お守りを買い求める人がいる[2]。旧社名は、「感神院新宮」「粟田天王宮」と呼ばれていたのが、明治になり「粟田神社」と改められた。 (ウィキペディア「粟田神社」より)

 三条通り沿いに粟田神社の鳥居がある。

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それを上がってと、公道にでる。公道を隔ててさらに鳥居がある。ここから本殿に上がっていく階段がある。

 

小高いところにあるので、眺望がよい。

 

 青蓮院門跡は、この粟田神社と隣接しているようだ。

↓青蓮院門跡の入り口にあるクスノキ。最近元気がなくなっているようだ。このクスノキは青蓮院門跡のシンボル的な存在。