昨年、前半はよく京都に行った。
一昨年2018年はとてもよく京都に行った。
その前の年もよく行った。
とにかく京都になぜかよく行った。
なぜか京都には惹かれる。
↓円山公園枝垂れ桜2017年4月1日撮影
↓円山公園枝垂れ桜2018年3月25日撮影
↓円山公園枝垂れ桜2019年3月24日撮影
そして、今、行ってはいけないような気がする。
新型コロナウィルスに感染しないために。
行っても、歩いて写真や動画を撮るだけで、ほとんど人接触することがない。スッと行って、フラフラ歩いて、スッと帰ってくる。
まるで、「糸の切れた凧」にならぬ、凧に引っ張られ空に上がり、凧が切れて飛んでいってしまうと、フラフラ漂い、地面落ちると、ひっぱり戻されるように戻る「凧の切れた糸」のよう。人が聞けば勿体ないと言いそうな。
行っても、あまり問題ないように思う。
京都に何度も行っていると、当然、同じところを何度も何度も歩くこともあった。
次第に、行くところがなくなり、目的もなく京都に行って同じところを歩いていたこともあった。
東山区の七条から三条出町柳のあたりまで、くどいほど歩いた。
一時は伏見。
ある時は、
琵琶湖疎水沿・蹴上あたり。
烏丸界隈もよく歩いた。
上京区
何度も行くのなら、大原や八瀬、鞍馬貴船や北山の方までに行けばいいかと自分でも思うが、何故かそこまで行かない。
「洛中」と東海道や疎水など有名な寺社や「洛中」鴨川ひとり隔てただけの「東山」が好きだ。歴史深いところが気に入っている。
行きたいところがなくなっても、京都関係本を読むと行きたくなる。
知らなかった京都を知ることができ、京都へ行くモチベーションになった。この本に書かれたことを見に京都に何度も行った。
情報を得て、歩くと、同じ道や通り沿の建物も違って見えてくる。
そこには、時代時代を生きた人の様子をうかがい知ることができるようだ。
今は形を変えたり、消えたりしたものに惹かれる。それがアスファルト舗装された普通の道路であっても、歴史の息吹が感じられるならそれでいいと思って歩く。
歴史の中の人の息吹が感じられれば、そこにに惹かれる。
本を読むとそう言ったモノが見えてきて、興味が湧き、行きたくなる。
京都は、日本で歴史の地層が幾重にも重なっているところ。
一枚地層を剥がせば、別の時代がある。違った味がある。時代時代に生きた人の生き様、生活に想いを馳せることができる。