もう、何ヶ月行っていないだろう。
「京都」へ
そろそろ、2ヶ月程度になる。
行ったのは、桜の頃だった。
もらい物の一眼レフを持って、シャッターを切りながら歩いた。
哲学の道をあるいて、蹴上まで行って、枝垂れ桜のある円山公園を目指して、三条通りを下っていた。
元白川小学校跡地再開発
三条通り沿いに粟田神社の鳥居がある。その横は、白い工事塀が建てられていて三条通り沿いに数十メート続いていた。
元白川小学校跡地の再開発工事。
ホテルができるようだ。
元立誠小学校
京都の小学校の再開発というと元立誠小学校の跡地再開発のことが思い出された。
立誠小学校は、木屋町の高瀬川沿いにあった小学校。
現在の京都府京都市中京区備前島町にあった公立小学校。学制創設以前の1869年に開校したいわゆる番組小学校のひとつであり、1927年に完成した鉄筋コンクリート造校舎が現在、立誠ガーデン ヒューリック京都として現存している。この京都市内に現存する最古の鉄筋コンクリート造校舎は元・立誠小学校と呼ばれ、1993年3月の閉校後にもさまざまなイベントに使用されている。(ウィキペディア「京都市立立誠小学校」より)
↓2018年3月25日撮影
そこも、再開発で取り壊された。
木屋町を歩いているとこの小学校の正門のところでフリマのようなことをしていたのを覚えている。
下の写真は2013年の5月3日に撮ったもの。
このとき、「日本映画の原点 立誠」というイベントをしていた。入ってもよさそうなので入ってみた。建物は古いがしっかりした造りの建物。明治は知らないが、テレビで見たことのある明治の匂いがする。
しかし、建てられたのは、1927年(昭和2年)のようだ。
こんな建物が好きだ。
むかしの卒業生の写真も飾ってあった。中村珠緒さんが写った卒業写真もあった?と思う。
今は、建物は保存再生されて「立誠ガーデンヒューリック京都」となっている。
内装は随分変わっているのだろうか。
京都の小学校(番組小学校)
京都の小学校は立派で、明治のころの京都の小学校は、他の小学校とは違ったようだ。
明治の頃の小学校は、単に子供が勉強するところでだけではなかった。
京都は番組という、住民の自治の組織があった。
明治の初めには京都市はなかった。番組がひとつ自治体みたいなものだったのだろう。
その番組ごとに小学校ができた。
それが番組小学校。
64あったそうだ。
小学校は地域の中で、色々役を果たしたようだ。
「小学校は町組の近代化をひっぱってゆ、晴れがましい役割を背負ったセンンターであった。会所であり、消防署であり、警察の交番であり、納税所であり、太鼓をうって時刻を報知する時計台であり、そして児童教育の場であった。」(「京都の謎 東京遷都その後」高野澄著 より)
このように住民とのかかわりも、他の地方とはちがったようだ。
京都の小学校も歴史上の重要な史跡かと思う。
そんな小学校も、少子化の影響か統廃合され、どんどん姿を消しているようだ。
番組小学校(ばんぐみしょうがっこう)は、明治維新後の1869年(明治2年)、京都の町衆たちの手によって、当時の住民自治組織であった「番組(町組)」を単位として京都(当時の上京と下京)に創設された、64の小学校を指す。 これらの小学校は、1872年(明治5年)の、国家による学校制度(学制)の創設に先立つ、日本で最初の学区制小学校であった。
京都市学校歴史博物館
京都市には、番組小学校の歴史などの資料を展示した京都市学校歴史博物館があるようです。
場所は、御幸町通り沿いに、高辻通りより少し北にある。
四条河原町からそう遠くないところにある。
緊急事態宣言が解除されて、コロナが落ち着けば、京都散歩を兼ねて行ってみたい。
1869年(明治2年)、全国に先駆けて日本最初の学区制小学校である番組小学校64校を創設した京都の学校教育の歴史を展示する博物館で、1998年(平成10年)11月に開館した。