以前から気になっていた。
東山七条から京都女子学園に続く女坂の北側の瓦壁。
なぜ「女坂」と言うのかはわからないが、地図に載っていた。
女坂を、山側に少し上がると「Four Seasons Hotel Kyoto 」の入り口がある。
東山大路沿いにも「Four Seasons Hotel Kyoto」の入り口がある。
「Four Seasons Hotel Kyoto」の敷地かと思っていた。
しかし違った。
妙法院門跡だった。
妙法院門跡
東大路通り沿いに門があった。
妙法院門跡大門。
固く口を閉ざして訪問者を拒んでいるような感じがした。
地図を見ると、北と東を「Four Seasons Hotel Kyoto」が妙法院門跡を覆うように建っていた。
門跡とつくお寺は、格式が高い。
門跡(もんぜき、もんせき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。(ウィキペディア「門跡」より)
天台宗三門跡の一つ
天台宗三門跡は、青蓮院門跡・三千院・法妙院門跡。
東大路を歩いていると、瓦壁が途切れる所があった。
入り口
ここは、「Four Seasons Hotel Kyoto」の入り口だと思っていた。
少し中をのぞいてみると、妙法院門跡の境内に入ることができそうだった。
左が「Four Seasons Hotel Kyoto 」、右が妙法院門跡。
門は閉まっていないので、入ってよいだろう。
庫裡改修(強化)保存工事中
今は、庫裡の改修補強工事中だった。
庫裡はいわゆる台所。
ここの庫裡は、国宝に指定されている。
吹き抜けのこの大建築は、天下統一のモニュメントとして豊臣秀吉が建立した大仏殿方広寺落慶の際、市中八宗の僧を召集し「千僧供養」を行った時の遺構で、文禄4年(1595)の建立とされます。
代表的な桃山建築で、梁間十三間、桁行十二間、棟高六十尺の本瓦葺入母屋造り、妻飾りの巨大な懸魚や、台所でありながら唐破風の玄関を持つなど特別な建物だったことを伺わせます。(妙法院パンフレットより)
懸魚
令和2年から始まって、令和9年までするようだ。
大きな古木があった。
改修で撤去された大梁。
亀裂ができている箇所を示していた。
工事中の庫裡の写真。
大玄関
大玄関は元和6(1620)年、東福門院和子(後水尾天皇中宮)入内時に京都御所に造営された殿舎(一部)を移築したものと伝え、三室二十面の襖絵は狩野派による「松之図」で飾られ、建物と共に重要文化財に指定されています。(現地案内看板より)
唐門
さらに奥に進むと。
先ほど前を通った「唐門」があった。
唐門は、境内の南西、東大路に面して建ち、江戸中期の桜町天皇下賜と伝える、いわゆる勅使門で、呼称とは異なり桧葺・切妻造り・平入りの四脚門となっています。
(現地案内看板より
庭園
その向かいには、庭園があった。
綺麗に手入れされたお庭だった。
「七卿落ち」の記念碑
庭園に入ってすぐ右手に大きな石板が立っていた。
「七卿落ち」に記念碑。
前方の大きな碑は幕末、文久3(1863)年8月、公武合体派と対立する勤王急進派の三条実美卿一行が院に集結、合議の未、市内戦を回避、後の維新を期して、西国へ向け出京したという「七卿落ち」の記念碑で有栖川宮威仁親王の篆額を得て、大正1(1912)年9月に建立されたものです。
毎年10月には、いまも七卿をしのぶ記念法要が続けられています。
宸殿
左手には「宸殿」の大きな建物があった。
今改修中の庫裡に続いてる建物だろう。
碑に対面する桧皮葺の建物が殿です。殿内仏間には、中世よりの天皇・皇后のお位牌が安置され、前三代の両陛下の祥月には懇ろに法要が営まれています。
本堂(普賢堂)
ここが本堂のようだ。
普賢堂の前にある案内を見ると、ここが本堂のようだ。
目毅寺造營記急樹 「蘇 鉄」
最後に御朱印を買おうと社務所に行った。
社務所の前あたりに、室で包まれた木があった。
参拝するには
通常は庭や建物こ外観を見ながら、本堂の普賢堂に参拝する。建物の中には入れない。
しかし、御朱印をいただく時に話を聞くと。
今年は5月14日には建物の中も参拝できるような感じだった。
14日は法要が行われる日。
普賢堂では毎月1日と14日に法要が行われる。
14日はなんらかの意味がある日なのだろうか?
三十三間堂と
妙法院は三十三間堂とも関係が深い。
そもそも妙法院の敷地はとても広かった。
パンフレットに
桃山期よりこの地に本拠を移し、進非王院、大仏殿方広寺等を管領し、東山随一の巨刹として栄えます。
江戸期には尭恕、真等の法親王が出て、多くの文人との交流により京文化の一翼を担いました。龍華蔵には豊太閤関連の遺宝をはじめ、王侯ゆかりの貴重な文化財が収蔵されいます。
明治維新により多くの遊内寺社が分離廃却となり、現・国立博物能一番を含めた野球の大半が勘収されます。三十三間堂が飛地になったのはその後事です。(パンフレットより)
それでか!
唐門の前に三十三間堂の通し矢の案内が唐門の前にあった理由がわかった。
さいごに
鴨川の東の五条あたりから一体は、時代の大権力者(後白河法皇の法性寺、豊臣秀吉の方広寺・豊国神社、平清盛の六波羅)の往時の権勢の大きさに思いを馳せることができる所だと思う。
今も、三十三間堂あたりにある。かつては三十三間堂も法住寺の敷地内にあったそうだ。
当初の法住寺は南は八条通りから北は七条通りより更に北方に延び、東は法輪寺(今熊野観音)の旧域を除いて東山の山裾に及び、西は今の大和大路にまで及んでいたのです。(法住寺ホームページより)
アクセス・地図