上御霊神社(御霊神社)・応仁の乱の勃発の地・東陣プロジェクト・西陣と東陣の境は・・・【京都市上京区】20230402

 

上御霊神社

静かで落ち着いた感じのある神社。
入ると世界が変わるような気がした。
訪れる人も少ないためか、とても落ち着く。
上御霊神社

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手水
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本殿の横には、休憩所があり、腰掛けて、しだれ桜を背景に拝殿や境内ないを見ることができる。

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南門
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授与所で御朱印を求めた。1,000円と高めだが。

御朱印に紙のお札や和菓子がついていた。

祭神として崇道天皇(早良親王)、吉備真備、橘逸勢(たちばなはやなり)をはじめ13柱の神霊を祀る。
 この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(794年)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇のご御願により祭神5社が増祀され、現在にいたっている。

 平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々おこなわれ、疫病除けの霊社として名を広めた。(御霊神社(上御霊神社)由緒書きより)

 

   

 

応仁の乱の勃発の地

ここは応仁の乱の勃発の地もこのあたり。上御霊神社の入口の横にある案内看板の横に「応仁の乱の勃発に地」の案内看板がある。

上御霊神社 応仁の乱発端の地の碑

文正二年(1467年)正月十八日朝、この付近すなわち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から「応仁の乱が始まった。
前日の十七日深夜、畠山政長は自らの屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院光宣(じょうしんいんこうせん)らと兵二千を率いてここに布陣した。
 翌十八日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就(はたけやまよしなり)が三千余の兵で攻撃をしかけ十八日は終日戦いが続いた。義就方には朝倉孝景、ついで山名持豊(宗全)の命を受けた山名政豊が加勢した。しかし、政長方には頼みの細川勝元がこの時点でまだ動かず、まる一日の合戦の結果、政長方は持ちこたえられず退去した。これが「応仁の乱」最初の合戦である。(
「応仁の乱 勃発の地」由緒書より)

 

室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕政の中心であった細川勝元と山名宗全の2大有力守護大名の対立を生み、幕府を東西2つに分ける大乱となって、さらに各々の領国にも争いが拡大するという内乱となった。
11年に亘る戦乱は、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した(ウィキペディア「応仁の乱」より)

京都では、冗談で前の大戦は「応仁の乱」という。
それだけ、京都は太平洋戦争による被害が少なかったからもしれない。

応仁の乱の書籍を読んだことがある。読んで見ると、意外とドラマになりそうな時代だと思う。しかし、意外と時代劇の題材とはならない。

NHKの大河ドラマで放送されたが、視聴率がとても低かったようだ。人気がない。応仁の乱で室町幕府は衰え、人気のある戦国時代なる。戦国時代の方が分かりやすい。応仁の乱は織田信長や豊臣秀吉のような大物がドラマてこない

東陣プロジェクト

応仁の乱後’550年後の2017年に発足されたプロジェクト
応仁の乱で、西陣が生まれた。西陣は、応仁の乱の後、職人があつまり、織物で有名になった。今に名前を残す。

しかし、東陣という名前は残っていない。

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なぜ、東陣はないのだろう。
将軍の足利義政・義尚がいる東軍が陣を敷いた場所のすぐ近くに、将軍の本拠地の室町殿があったため、またわざわざ将軍が陣を作らなくても良いと言うことじゃないかなと思う。さらに、応仁の乱が始まると、天皇や上皇は室町殿に移った。天皇と上皇と将軍が同居することとなった。

西陣はどのあたり

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この地図で、応仁の乱当時にない通り「小川通り」が載っているが、小川通りは名のとおり川だった。この川の辺りが、応仁の乱初期の東軍と西軍の境だったようだ。小川という名からも想像できる小さい川を挟んで東軍と西軍が戦った。
後に、堀川あたりまで西に行くようだ。

「応仁の乱・東陣を歩く」というPDFを下記アドレスで見ることができる。

http://chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/cmsfiles/contents/0000101/101208/toujin-map-2.pdf

西陣のエリアをマップに落とし込んでみた。
緑の線が「小川通」
・青い線が「堀川」
・青い★が細和勝元の家
・緑い★が山名宗全の家
・黒いエリアが室町殿(花御所)
当時将軍足利義政はここにいた。
応仁の乱が始まると後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて室町殿(花の御所)に避難した。
・紫のエリアが内裏
西陣の範囲は年代によって違っている。

寛永15年(1638年)頃までは西陣組と呼ばれていた町組西限が七本松通、南限が一条通、東限が小川通、北限が上京区・北区の区境である。
享保2年(1717年)頃にまとめられた『京都御役所向大概覚書(きょうとごやくしょむけたいがいおぼえがき)』堀川通・七本松通・鞍馬口通・一条通(または中立売通)に囲まれた範囲
京都市による西陣学区の案内では「歴史的な西陣の概念は、ほぼ南北は中立売通から鞍馬口通まで、東西は室町通から千本通まで、一辺が約1kmのほぼ正方形の範囲」 
(ウィキペディア「西陣」より)

今の西陣は、京都市による西陣学区のエリアになっているのではないかと思う。歩いていて、ここまで西陣があるのかと思うほど、西陣が東陣へ食い込んでいるところがあった。