火除天満宮
阪急京都河原町駅周辺は、いつも観光客で賑わっている。京都で一二の繁華街。
日曜日、四条通りは人でいっぱいでとても歩きにくい。
八坂神社の御旅所をの前を通り、寺町通りを左に曲がった。右に信号を渡ると寺町通りのアーケード商店街の寺町商店になる。商店街を背に、人通りの多いセンターラインのない寺町通りを歩いて、すぐにコンビニが入っているビルがあった。
その横は高島屋の駐車場入り口。
コンビニと高島屋の入り口の間に第二十四番 洛陽天満宮二十五社順拝「火除天満宮」があった。
火除天満宮と呼ばれるのは、
1579年に九州の兵乱を避けて一人の老神官が菅原道真公の像を背負って入洛して、六条の辺り祀ったの始まりで。
1587大雲院が二条の地に創建されると鎮守となり、
1597年現在の地に移った。
大雲院は1973年(昭和48年)に真葛ケ原の勝地に移転したようだ。
386年鎮守を務めた大雲院を分かれて、火除天満宮だけはこちらに残ったようだ。
大雲院が遷った真葛ケ原は知恩院三門付近から円山公園をはさみ双林寺・八坂神社に至る台地一帯の古称。
御朱印などは?
敷地の狭い神社なので、社務所らしいところはなかった。
御朱印や授与品、奉賛金・献灯の申し込みなどは、天満宮入り口の前から少し下ったところの眼鏡屋さんでできるようだ。
火除と言われる由縁は、
蛤御門の変でこの一帯だけが奇跡的に類焼を免れた。
これ以降もしばしば火難から救われたという伝承がある。
この辺りは、木造やコンクリート造の建物が密集している。
裏には、八坂神社の御旅所がある。
火除の神様としてここにいてもらった方が、この辺りの人には都合がよかったのかもしれない。
洛陽天満宮二十五社順拝・九番と二十四番
ウィキペディアの「洛陽天満宮二十五社順拝」を見ると「火除天満宮」が二つあった。
九番と二十四番・どちらも大雲院の移転が関係しているのか?
狭い参道
参道はビルの端の軒、柵のシn向こうは高島屋の道路。
本来はここが正式ばmな参道ではなかっただろう。
手水舎・御神水・伏流水をくみ上げている。
手水舎よりせせらぎとし流れおちる清水は、古来より豊かな伏流水を汲みあげております。この御神水は味誠にまろやかにして澄明、いにしえに変わる事なくこんこんとわき続けています。(現地説明文)
手水舎の横に、橋があり横には石が置かれていてそこからも水が湧きだしていた。これも同じ御神水なのだろう。
提灯の並ぶ参道
参道に提灯がたくさん並んでいた。振り返って入り口の方を見たところ。
さらに進むと。マンションの廊下を歩いているような感じ。
牛
牛がいた。牛は天満宮に欠かせない。
本殿
本殿前鳥居
本殿の前に鳥居があった。その先は柵で通れない。
柵先は、高島屋の駐車場へ道路。
本来はこの鳥居を通るの参道。
かつてはここから神社に入ったのだろう。
高島屋駐車場通路から
ビルに押しつぶされたようにな感じがした。
龍池山大雲院跡石碑
火除天満宮は、長らく大雲院の鎮守だったようだ。今は別々。
今の大雲院は、八坂神社・円山公園の南あたりにある。よく周辺を歩くが、ついぞ参拝したことがない。参拝できるのかもわからない。多分、門には柵があったような。
大雲院は天正十五年(1587年)織田信長・織田信忠父子の菩提を弔うたまえに正親天皇の勅命にようり開山貞安上人に御所(烏丸二条)を賜り信忠公の法名に因んで大雲院と号した。
豊臣秀吉は寺地の狭隘(きょうあい)なるを見て同十八年当地に移し寺観は面目を一新した。昭和四十八年寺運の興隆を鑑みて、東山山麓真葛ケ原の勝地に移転した。
地図・アクセス
阪急京都河原町駅10番で出口すぐ。