泉湧寺の参道を歩いていると、辻に「悲田院」と言う手作りの看板を見つけた。「悲田院」は、学生の頃耳にした懐かしい響きがある。是非行ってみたと、その看板の示す方に行ってみた。人通りのない学校の横の道を歩いた。悲田院は参道から離れたところにひっそりとあった。行った時、先きに見学を済ました観光ツアーの一行が帰るところだった。
そのあとは、静かだった。
泉湧寺参道から少し歩いて悲田院に上が
っていく階段。この階段を上がっていく。
境内に入ってみた。奥に進むと、眺望が開けた。京都の町が一望できる。
京都タワーから北山の方まで望めた。
広く京都望めて気持ちが良かった。
「徒然草」で悲田院がでてくるのは、第百四十二段になる。検索して現代訳を読んでみて、なんとなく覚えがあるような内容だった。原文の以下のとおり。
悲田院堯蓮上人は、俗姓は三浦の某とかや、双なき武者なり。故郷の人の来りて、物語すとて、「吾妻人こそ、言いつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実なし」と言ひしを、聖、「それはさこそおぼすめらめども、己は都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思い侍らず。なべて、心柔らか、情ある故に、人の言ふほどの事、けやけく否び難くて、万え言ひ放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思はねど、乏しく、叶はぬ人のみあれば、自ら、本意通らぬ事多かるべし。吾妻人は、我が方なれど、げには、心の色なく、情おくれ、偏にすぐよかなるものなれば、始めより否と言ひて止みぬ。賑はひ、豊かなれば、人には頼まるゝぞかし」とことわられ侍りしこそ、この聖、声うち歪み、荒々しくて、聖教の細やかなる理いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心にくゝ成りて、多かる中に寺をも住持せらるゝは、かく柔ぎたる所ありて、その益もあるにこそと覚え侍りし。
内容はざっとこんな感じ。
悲田院の堯蓮上人のところに、同郷の吾妻から人が来た。その人が言うに京都の人と吾妻の人とを比較して、都の人は口ではいいように言うけれど、実が伴わないから信用できない、それに反して吾妻の人の方は言ったことを守るから信頼できると言う。それを聞いた上人は悟すように同郷の吾妻人に言う。都の人は気が優しく、断れないなどと都の人の心情を伝え、都の人と吾妻の人を比較して、都の人の方が吾妻の人より心豊かで決し豊かでないが心遣いできる、吾妻に人は豊か(金持ち)だから信用されるのだと悟し、吾妻人は上人の話を聞き、得心し上人が上人たるを知り恐れ入る。
と言ったような話かな。現代語訳を読んだがこんな感じかと思う。
徒然草が書かれた時代はウィキペディアによると1330年-1331年頃らしい。ちょうど、鎌倉幕府末期。南北朝の芽が出始めているころ。政権が変わる時世の中は乱れ、争いが生じる。都であった京都はよくこう言った争いの場になる。一般の人は常に戦争の被災者になりやすい。さらに、味方と敵が京都と言う都に混在し、敵味方が知らぬ間に入れ替わったりする。誰が味方敵か?わからないようになる。ちょっとヘタなことを言うと、命に関わる。そう言う京都の都の歴史もあって、京都の人の言葉はやわらかく、本心を包みそして所作などで本心を伝えようになったのかもしれない。昔の京都に住む人の生きるすべでもあったかもしれない。京都とは違う環境にいる人にとって京都に来て持つ印象は、徒然草の吾妻人が持つような印象なのかもしれない。昔も今も同じなのかと思う。現代でも、徒然草に書かれているのと同じ印象を京都の人につ持った人いるようだ。
悲田院は泉湧寺の塔頭である。仏教の慈悲の思想に基づき、身寄りのない老人や貧しい人や親のない子供などを収容する福祉施設だった。
だから、徒然草にあるような上人の存在が描けたのかもしれない。
悲田院から泉涌寺へは門をでまっすぐ歩いて突き当たりを右に曲がると行ける。