田ステ女????
「田ステ女」と聞いてどう思う。
「???」
人だよと応えると
どんな人を想像する?
最後に「女」が付くので、女性だと思う。
いつの人
江戸時代
江戸時代の捨てられた女性にことかと思ってしまた。
なぜ「ステ」=「捨て」という名前が付いた人が、
資料館で展示されているのか?
不思議だった。
資料館の前の石碑。
句碑があって、詠み人のところには「ステ」とのみ書かれている。

資料館には、柏原藩の歴史の展示と「田ステ女」の展示があった。
「田ステ女」の展示場は撮影禁止。
柏原藩の展示場は撮影は大丈夫なのに。
そんなに秘密にしたいことなのか?
田ステ女は
「雪の朝 二の字二の字の下駄のあと」
という俳句の詠み人。

この俳句は聞いたことがある。
テレビでも使われたことがある句だ。
うまく表現しているなと思った。
この句は子供ころに読んだらしいが、
それはおかしいという説もあるようだが、
柏原でうまれた歴史に名を遺す人物のようだ。
資料の前やたんば黎明館の向かいに田ステ女の句碑や像があった。
資料館前では



田 捨女または、田 ステ女(でん すてじょ/ステめ、1633年(寛永10年) – 1698年9月13日(元禄11年8月10日)[1])は、江戸時代の俳人。貞門派の女流六歌仙(六俳仙)の1人。 氏名は田ステで、「女」は名の一部ではなく女流歌人の名に添える接尾辞である。法名は貞閑で、貞閑尼とも呼ぶ。 (ウィキペディア「田捨女」より)
GoogleGeminiに何故「田ステ女」と呼ばれたの聞いてみた
「捨」という名前に込められた願い 現代の感覚では驚くような名前ですが、当時は**「捨て子は元気に育つ」**という厄除けの俗信がありました。 子供が病弱だったり、跡取りとして無事に育ってほしいと願う場合、あえて「捨て子」の形をとったり、名前に「捨」や「棄」という文字を入れたりすることがありました。 彼女の実家である田(でん)家は、現在の兵庫県丹波市(柏原藩)の有力な一族でした。大切に育てたいという親心が、逆説的に「捨て」という名前に繋がったと考えられています。
親の思いから、逆説的ついた名前だったのか。
そいういえば、そんな話をきいたことがある。
引き続き聞いてみた。
Gemini の回答 「捨(すて)」のように、あえて縁起の悪そうな言葉を名前に選ぶ風習は、歴史上**「忌み名(いみな)」や「魔除けの命名」**として広く見られました。 「子供が可愛すぎて魔物(病気や死神)に目をつけられないよう、わざと卑しい名前をつけて価値のない子だと思わせる」という親心から生まれたものです。
いくつか代表的な例を挙げます。
1. 豊臣秀吉の息子たち 秀吉は子宝に恵まれなかったため、ようやく生まれた子供には特に強い魔除けの名前をつけました。
棄(すて):長男(鶴松)。文字通り「捨て子」という意味です。
拾(ひろい):次男(後の豊臣秀頼)。一度道端に「捨てられた」ことにして、それを家臣が「拾う」という儀式を経て名付けられました。
そう秀吉の子供のことだった。
「ステ」は大人になって使っていたのか?
使っていたのだったら、「ステ」という名が気に入っていたのだろう。
織田信包(おだのぶかな)像
資料館前には、「田ステ女」の碑以外にも柏原ゆかりの碑があった。
柏原藩の初代の織田信長の弟の織田信包の像


たんば黎明館前 田ステ女の像や句碑

たんば黎明館

たんば黎明館前の「田ステ女」の像や句碑。




くずし文字が読めないので、どの句碑を見てもあまりわからないが。
上の写真の句碑だけは読めた。
「雪の朝 二のじ二のじ 下駄のあと」
木の根橋
たんばれ黎明館から、柏原八幡宮にむかって歩き出すと。
大きな木が目に付いた。

かなりの樹齢のようで、支えがされている。
この木の根が川を跨いで伸びている。



木の根に沿ってある橋、この橋の名前が「木の根橋」


橋に沿って木の根が。
昔は橋はこの木の根が支えていたのだろう。

この木は「ケヤキ」

織田神社
木の根橋のたものにあったのが「織田神社」


織田信長の弟の織田信包の孫の織田信勝で信包の家系が絶えたあと、織田信長の次男の織田信雄の子の織田信休がこの地の藩主になり織田家の柏原藩は明治まで続いた。
柏原八幡宮まで紹介しるつもりだったが、
長くなったのでここまで、
次は柏原八幡宮