【京都散歩 西から東へ 2】若一神社(にゃくいちじんじゃ) 平清盛の西八条殿跡・清盛手植えのくすのき 御利益は開運出世 熊野信仰若一王子(若王子)とは 【京都市下京区】20260125

 

JR西大路駅と周辺

雪降る桂川と天神川の背割から歩いて、

 

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西高瀬川を渡るともうすぐJR西大路駅。

ひとつ大阪側の駅は今日の出発点の「桂川」駅

ひと駅歩く間に雪は止み、陽が射し始めていた。

 

「西大路」駅の近くには、

唐橋西寺跡公園

少し東に足を延ばして羅城門跡

さらに東寺がある。

 

唐橋西寺公園には、5月の松尾祭の還幸祭の時に、

松尾祭の神輿6基と唐櫃1基が

勢揃いする。

松尾祭で、神輿と唐櫃が勢ぞろいするのは、唐橋西寺公園だけだと思う。

祭の時は、この公園の呼び方は、「旭の社」。

旭の社というが「西寺」に集まったといってのかもしれない。

2023年5月14日撮影

松尾祭還幸祭 旭の社(唐橋西寺跡公園)集まる神輿と唐櫃

秦氏にゆかりのある東西の神社はそれぞれ

東の伏見稲荷大社の稲荷祭は、還幸祭の時、東寺に立ち寄る。

西の松尾大社の松尾祭は、還幸祭の時、西寺跡に集まる。

こんな風に思いを馳せるの面白い。

「旭の社」に向かう神輿と唐櫃一行は、

「西大路」駅の横を通る西大路を通って、旭の社に行く。

2023年5月14日撮影 西大路駅横を通る西大路通り

 

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若一神社(にゃくいちじんじゃ)

「西大路」駅を北へJRの高架をくぐり八条通り北東角に若一神社がある。

かつて平安時代には平清盛の西八条殿があったあたり。

若一神社の前には、

平清盛手植えのクスノキがある。

 

八条西大路交差点手前から、

その大きなクスノキと近くにある大きな木とで鎮守の森のように見える。

若一神社 平清盛の西八条第跡

写真の左手が平清盛手植えクスノキ、

右が若一神社。

その間に歩道がある。

 

平清盛公西八条殿跡の石碑

西八条第はとても広かった

吉川英治さんの「新平家物語」を読みながら、

どのあたりにあるのかと思いを馳せたが、

わりと京都の西の端にあるものだと思った。

平安時代末期に飛ぶ鳥を落とす勢いの平氏の住まいは意外と南にあった。

天皇の住まいから離れている。

 

平清盛の終焉地推定地

八条通りをずっと東に歩き、高瀬川の手前の須原通に行きあったり、北に少し行けば、

 平清盛終焉推定地碑(高倉天皇誕生地)がある。

なぜ、高倉天皇の誕生の地と清盛の終焉の地が同じなのか?

清盛の西八条第と鴨川の東にある平氏の六波羅の真ん中くらいあり双方に目配りがしやすかったからだそうだ。

 

高倉天皇は平清盛の甥になるのかな。

清盛の奥さんの時子の妹滋子と後白河法皇の子。

だから、平盛国邸なのだろうか?

2018年10月14日撮影

平清盛の終焉推定地碑(高倉天皇誕生地)

平安京における平家邸宅地図

上の地図からすると

平家の住まいは天皇の住まいの内裏からかなり離れていたことになる。

六条以南でほぼ平安京の南の端に近い八条通り沿いに多くあった。

唯一平重盛の邸宅が五条より北にあり内裏に近いようだ。

平清盛の長男であるこの平重盛の早世が、

平家の滅亡する大きな原因だったかもしれない。

 

歴史にはある人が亡くなることで、

その一族の命運に大きく変わったと思われることがままある。

今NHKの大河ドラマの「豊臣兄弟」の豊臣秀吉の弟の豊臣秀長。

秀長が秀吉より長生きすれば、

豊臣家は今も脈々と引き継がれていたかもしれない、

徳川幕府が誕生したかどうか?

徳川家康も歴史に埋もれて、

今のように歴史的有名な人ではなかったかもしれない。

 

よくいわれたように記憶しているが、

日本はガラパゴスだと。

そんな日本も生まれなかっただろう。

日本は世界の波に飲み込まれてまた違った国になったと思う。

 

地図の位置が違うのかな?????

 

ちょっと話がそれがたが、

この地図と、この日行った「西八条第」の場所は違う。

上の写真では、朱雀大路(千本通り)より東に「西八条第」があるように描かれている。

この日行った西八条第は、朱雀大路(千本通り)より西だ。

西寺の北あたりにある。

上の地図では、東寺の北になっている。

江戸時代の島原か島原の南、梅小路公園あたりになる。

確か梅小路公園には、「西八条第」の案内看板があった。

2024年2月18日撮影

梅小路公園 西八条第 案内 

 

平清盛の頃には熊野詣でがブームだった。

白河上皇から鳥羽上皇、堀河天皇、後白河法皇までかなりの回数熊野詣でをしている。

清盛も熊野詣で行っている。

後白河法皇の依頼で、

熊野から熊野大権現を勧請して法住寺に今の新熊野神社を建立した。

熊野信仰全盛の時だろう。

 

熊野から京都に来た若王子は土に潜り、

そして清盛の頃また現れた。

因みに若王子は、天照大神のことともいわれている。

和歌山にある熊野三山にも若王子は

熊野本宮大社・熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られる。

京都にも「若王子」の名がついた熊野神社の熊野若王子神社が東山にある。

 

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清盛はこのご利益を得て太政大臣まで上り詰めることができたということのようだ。

だから若一神社の御利益は

「開運出世」

のようだ。

 

若一神社は西八条第の西端にありそこから東へ、

梅小路公園まで、

広さは6haとGoogle Geminiが行っていたが

倍はありそうだ。

まぁ時の権力者、

土地は取り放題だっただろうから

清盛の西八条第は西は若一神社から東は梅小路公園、

南は八条通り、北は七条通りあってもおかしくない。

とくに若一神社は右京にあり、右京は寂れていっている。

もっと西広くてもおかしくない。

まぁ、もう1,000年以上も前のことだから、

 

   

 

若一神社と平清盛手植えのクスノキの写真

若一神社

 

手水舎

若一神社 手水舎

 

手水舎の手前には平清盛像が

想像していた清盛と違ったイメージ

若一神社 平清盛像

 

 

この神社は大きな木が多い。

 

奥に入ると

 

平清盛手植えのクスノキ

若一神社 平清盛手植えのクスノキ

真ん中の木のようだ

 

   

 

若一王子とは

光仁天皇(桓武天皇のお父さん、天智天皇の孫))の頃、唐より 日本にやってきた威光上人が熊野詣に出て、迷う若い人たちを救わんと 御分霊若一王子の御神体を若一神社のあたりの持ち帰り一夜あかし神意の通りお堂に安置し奉斎鎮座されたそうだ。

その後、異変により土の中に入られた。

若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合の神である。
若王子(にゃくおうじ)ともいう。 熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。熊野本宮大社・熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られる(いずれも、現在は「若宮」と称し、天照大神のこととしている)。 熊野信仰が日本各地に広まるにつれ、熊野権現が各地に勧請されたが、若一王子のみを勧請する場合も多かった。明治の神仏分離に伴い、「若一王子」を天照大神や瓊々杵尊に変えた所も多いが、従前のまま「若一王子」として祀っている神社もある。(ウィキペディア「若一王子」より)

若一王子は、熊野三山に祀られている天照大神のこのようだ。

 

 

地図・西八条第のおおよその大きさ