最近、年のせいか、早く目が覚める。
7時より随分前に目が覚め。
どうしようか考えた。
6時半ごろ、そとが明るくなり。
部屋の窓から外を見てみた。
田辺市には高い建物があまりないようだ。
見晴らしがいい。
紀伊田辺駅の方向。
闘鶏神社へ朝の散歩
ホテルから近くにある闘鶏神社へお参りすることにした。
ホテルを出たのは、7時前。
くろしおの予約が取れていれば、
今頃は新大阪駅。
ホテルの一階では、
朝食のバイキングの用意が進められいた。
闘鶏神社
正面の参道はこちらのようだ。
拝殿
真新しそうな注連縄が
狛犬
ある人の話によると、狛犬にも男女があるようだ。
干支の絵馬
闘鶏神社と言えば、弁慶と湛増。
弁慶と湛増の像。
闘鶏神社のいわれは、
源平の頃、
源氏は海上戦が得意でなかったようだ。
西に逃げた平氏。
平氏は、海上の高いに長けている。
そこで、弁慶は、父である田辺の別当の湛増に熊野水軍の力を借りようとした。
湛増は、それではと、源氏と平氏にどちらにつくか決めるのに、
神意を聞くために、赤と白の鶏七羽を戦わせ、勝った方の鶏の色にするとした。
そして、源氏の色の鶏が勝ったのだろう。
それが、闘鶏神社の名前のいわれのようだ。
熊野の別当は、田辺と新宮と分裂していたことがあるようだ。
藤巌神社(とうがんじんじゃ)
祭神:安藤直次公(藤巌公)
安藤直次は、幼少から徳川家康に近侍し、姉川合戦、長篠合戦、長久手合戦などに従軍し、後に徳川家康の側近として幕政に参画した。
そして、徳川家康の第十子頼宣(初代紀州藩藩主)の傳役(もりやく)となり、大阪の陣に従軍した。後にこの田辺の地に封ぜられた。
この人が、紀州の梅の産みの親。
田辺の地は耕作に不能な土地や生産力の低い痩せ地が広がっていた。
そこで、直次は、瘦せ地や山の斜面に梅の栽培を奨励し、その土地を田畑の耕作不能な地域として、税を免除しる保護政策を取った。
これにより田辺・南部の土地は、梅の栽培が広がった。
痩せた土地でとれる梅の実は「やぶ梅」と呼ばれ果肉も薄く小粒であった。
梅干しは僧侶が食し、武士が毒消しや兵糧などに用いていた。
江戸時代に入ると庶民も食するようになり、民間治療や薬にも用いられ定着していった。
梅干しを江戸に送るようになり、紀州の名産物として広く知られるようになった。
境内の真ん中に高くそびえる木。
弁慶社
御神木大楠
手水舎
参道
田辺市街なかポケットパーク
参道沿いには、このような施設がある。
闘鶏神社以外にも熊野古道や街の案内をしてくれるようだ。
熊野参詣道の碑
闘鶏神社を出てずっと歩くと、アオイ通りに出た。
この信号の近くにホテルがあった。
行く時は、
かなり遠回りしていったようだ。
混みあう紀伊田辺駅
11時に紀伊田辺駅で待ち合わせ。
10時前に、駅に行くと、人が多い。
駅のセブンイレブンの前では、何やら列ができていた。
その列の後ろから次から次へと人が並び列は長くなっていった。
この日は、ヒカキンさんのラーメンが売り出されるということで、
それを求めての列だった。
10時に販売開始。ほとんど即完だった。
この人達はボランティアの人達のようだ。
下のバスは、
熊野本宮大社のある本宮経由で新宮行きのバス。
何度か利用したことがある。
7時34分新大阪発の特急くろしお1号が10時前に紀伊田辺駅に到着したあとに発車する。
1年ほど前に利用したときは、
10人も乗ることはなかった。
最近は、とても混みあっているようで、かなりの列ができていた。
大きなリュックを背負った欧米系の人が多くいた。
バスが出て、ボランティアの人が出て、ラーメンの販売が終わると、
静かな紀伊田辺駅になった。
この後11時に迎えが来て仕事。
再び紀伊田辺駅に戻ってきた。
昼抜きだったので、駅前で食べるところを探した。
駅近くでは店はなかった。
少しアーケードを歩くと
入りやすいそうな。
昔感のある喫茶店があった。
店前の小さなショーケースには、
ナポリタン、カツカレー、オムライス、サンドウィッチが並んでいた。
好きそうなメニューばかり。
田辺に来てこんなお店に出会えるとは。
店に入って、どれにしようか迷った。
カレー、カツカレー、オムライス、ナポリタンのどれにしようか?
悩んだ結果。
オムライスにした。
とても美味しかった。
いいお店だ。
雰囲気もいい感じで、昭和レトロな雰囲気で、壁には大きなポスターがいくつも張られていた。EXPO70の小さな太陽の塔があった。