妙蓮寺 幸野豊一による「四季の襖絵」・ 庭園「十六羅漢石庭」【京都市上京区】 20250202

 

妙蓮寺入り口

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妙蓮寺は法華宗のお寺。

日像聖人 脱履の道場にちぞうしょうにん だつりのどうじょう

妙蓮寺は、日蓮大聖人より京都布教のご遺言を託された日像聖人が入洛し、初めて草履を脱いだ道場です。日像聖人により日蓮聖人の御教えは京都へ伝わり広まりました。

(妙蓮寺ホームページより)

 

創建は・・・

ウィキペディアによると、

日像は、日蓮の高弟であった日朗に師事し、日蓮の遺命を受けて永仁2年(1294年)に都に布教しにやってきた。

五条西洞院の 酒屋・柳の敷地内に法華堂が建立されたのが始まりのようだ。 妙法蓮華寺と号した。

所在は今の場所と違う。

その後、

室町時代には荒廃したが四条大宮で、 卯木山妙蓮寺と改めた。

皇族を始めとして室町幕府第9代将軍足利義尚などが当寺に参詣している。

こうして隆盛を誇っていた当寺であったが、

天文5年(1536年)に起こった天文法華の乱で焼き討ちされると堺に避難する。

天文11年(1542年)になって後奈良天皇により法華宗帰洛の綸旨が出て、 大宮元誓願寺通(現・京都市上京区)に再建。

天正15年(1587年)に豊臣秀吉の命により、現在地に移転する。

転々としたようだ。

 天明8年(1788年)の天明の大火により鐘楼と宝蔵を残して伽藍のほとんどと27坊の塔頭全てが焼失した。

本堂は、寛政元年(1789年)に敦賀にある当寺の末寺・本妙寺の祖師堂を移築して再建された。

 

一回だけ京都を離れている。

天文法華の乱は、京都で勢力を広げた法華宗を延暦寺が本願寺も交えて、法華宗をたたき出すために起きた。

 

法華経・延暦寺・浄土真宗は宗派拡大・都での主権を持つために、守護大名交えた戦いあった時代がある。

日本のおける宗教戦争と言える。

 

五山送り火の「妙法」もその名残と言えるかもしれない。

 

photo.talk-turkey.com

 

日本の宗教戦争は、信長の出現により秀吉の頃ほぼ終わる。

 

安土桃山時代からこの地にある寺。

広々として整備された落ち着いた雰囲気のお寺。

境内は参拝無料。

季節により芙蓉御会式桜妙蓮寺椿しだれ桜などの花が咲く。

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本堂

 寛政元年(1789年)に敦賀の本妙寺の祖師堂を移築したもの。本堂の前方部は寛政4年(1792年)に増築したもの。(ウィキペディア「妙蓮寺(京都市)より)

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鐘楼

 元和3年(1617年)再建。

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寺務所

拝観料は500円

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寺務所に入った。

すぐには誰も出てこなかった。

ここまま誰も来なかったから帰ろうかと思っていると、奥から人が歩いてくる気配がした。

年配の女性が現れた。

拝観ですか?

はいと答えると。

今日は宝物殿は案内できないとのこと。

ここの目玉は宝物殿目当て来る人が多いのか。

今日は、ひとりしかいないので、宝物殿に案内することはできないと言う断りがあった。

人によっては、宝物殿を見ることができないなら、見ることができる日に来ると帰って行くそうだ。

それでもいいですかと。

宝物殿には今の所あまり興味がないので

「大丈夫です」と答えて、土間から上がった。

上がる時に、靴だなに靴を入れてそこにある履き物とって履き替えようとしたら。

「それ違う」と言われた。

宿坊をしている時に宿泊している人が銭湯に行くのに使った履き物とのこと。

今は宿坊はしていない。

よく見ると、上履きではない。

外に出る時履くよう草履だった。

 

土間から上がると、色々と説明を始めてくれた。

寺務所も、土間までは入っていいようだ。

靴を脱いで上がったら拝観料が必要と言うこと。

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土間

土間には井戸(今でも使っている)、

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「へっつい」があった。

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かつての庫裡だろう。

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土間から上がると、説明を始めてくれた。

そして一段落した時に、拝観料の500円を渡した。

勝手に見て回るだけかと思ったが、

その女性が「こちらへ」 先導して歩き出した。

 

いつもなのかわからないが、

奥書院にある( 幸野豊一による「四季の襖絵」)や 庭園「十六羅漢石庭」などついて説明してくれた。そして、当寺を紹介したビデオを見せてくれた。

その後は、案内してもらったところを自由に歩き回り写真を撮ることができた。

仏像とかはなかった。

 

境内図から館内の見て回ったあたり


この庭の向かい辺りが宿坊(今はやっていないようだ)

最初に案内されたのは、奥書院にある「四季の襖絵」。

右手が奥書院の襖絵。

幸野豊一による「四季の襖絵」

前の襖を通って、反対側へ

各襖絵で説明をしてくれたが、残念だが、断片的にしか記憶に残らなかった。

この部屋に来た時に、上の写真の左手にある鹿の絵を差して、

東日本大震災に被災した人が来た時のお話があった。

この部屋の、鹿の襖絵の前での説明は、かなり記憶に残った。

 

覚えているのは「誰にでも「朝」は平等に来る。生きていれば・・」と言ったような内容だった。

この女性の言葉ではなく、えらい方が話された内容で、

どんな目に遭っても生きていれば朝が来るという。

東日本大震災で被災した人が参拝に来た時、

この部屋で話を聞いて涙を流し、感銘を受けたたとのことだった。

話の詳しい内容は、もっと人の思いに残る内容だったと思う。

案内しれた女性は、とても信心深い人、おそらく住職の奥さんかな。

 

その後は

 庭園「十六羅漢石庭」

枯山水庭園。当寺の僧で桂離宮の庭園の造営にも携わった玉淵坊日首による作庭。天明の大火以降は荒廃していたが、近年復元された。臥牛石は豊臣秀吉によって伏見城から移されたもの。(ウィキペディア「妙蓮寺(京都市)より)

通路の左手が庭園、右が四季の襖絵の夏と春

真ん中が「臥牛石」

この横は地図見ると広い運動場だ。かつては学校の運動場だったようだ。

それにかかわる話で、壁側に並んでいる木はすべてが揃っていたようだが、枯れたりして、枯れたところには違う木が植えられているようだ。

 

「臥牛石」

秀吉があげるといって、すぐほしいというと、帰ったころに届いていたという話もあるようだ。

 

最後にビデオを見せてくれた部屋からも庭園はよく見えた。

庭園の端々に水やりの水栓があるので、撮影の時にそれが隠れるようにと、

ハートやウサギをかたどった撮影用のフィルターがあった。

撮ってみた。

こんな感じだろうか?

 

本堂に続く廊下を歩いて本堂の周りを一周した。

前に紹介した写真を重複するかもしれない。

本堂に続く廊下。

先ほどお参りし側を見下ろすように見れたのは、ちょっとおもしろかった。

北方守護毘沙門天

横の椅子は、えらい人が座る椅子のようだ。

館内の案内を受けたあと、好き勝手に写真を撮った。

 

地図・アクセス

 京都市営地下鉄烏丸線鞍馬口駅から徒歩10分。