大雲院と祇園閣
大雲院は織田信長と長男の織田信忠の菩提を弔らうお寺。
寺の名前は織田信忠の戒名か採ったもの。
もとは織田信忠が自刃した二条あたりの二条新御所跡にあったそうだ。
火除天満宮を鎮守社にした。
秀吉の頃に、四条河原町近くにある今の火除天満宮がある辺り移った。
寺町通り沿いだ。
↓四条寺町にある火除神社前にある石碑(2023年11月5日撮影)
円山公園あたりは昔は「真葛原」と呼ばれていたようだ。
秀吉の都市計画で、寺町通り沿いに寺を集めたられた。
そして、明治維新前後。
天明8年(1788年)1月の天明の大火、次いで元治元年(1864年)7月の禁門の変後に発生したどんどん焼けで焼失し、明治時代初期にようやく再建された。しかし、神仏分離により火除天満宮は当寺から独立した。第1回京都市会は当寺で行われている。
そして、明治の神仏分離で、火除天満宮は独立。<ウィキペディア「大雲院(京都市)」より)
火除天満宮の由緒書きには、禁門の変(蛤御門変)で、火除天満宮の周辺は、類焼から免れたと書かれてあった。
↓火除天満宮の由緒書き駒札(2023年11月5日撮影)
時代は流れて、1973年(昭和48年)、大雲院のある四条あたりは繁華街となっていた。
隣接する高島屋の増床するため、移転することになった。
現在の地、真葛原にあった大倉財閥の設立者・大倉喜八郎の別荘「真葛荘」の一部を買い、移転した。
本堂は、智積院に移転し明王殿(不動堂)となった。
その時、火除天満宮は、四条の地に残った。
繁華街なので火災防止の為に、「火除」の神様にはいてほしかったのだろう。
↓ビルの谷間にひっそりと、火除天満宮(2023年11月5日撮影)
大雲閣と祇園閣は、素性が少し違う。
昭和48年には、大倉喜八郎の別荘の「真葛荘」には、すでに祇園閣はあった。
祇園閣は、祇園祭の山鉾に似た建物で、壮観な祇園祭を常に披露したいとう希って
昭和三年御大典記念に建てられた。
鉄筋コンクリート造三階建て・高さ百二十尺(約36m)、鉾先には金鶏が輝き
地下の基礎は深さ百尺に及ぶそうだ。
パンフレットには、鉾先の鳥が金鶏とあったが、
この日受けた説明では、大蔵喜八郎氏の幼名が鶴吉ということで、鉾先の鳥は鶴だと言っていた。
↓鶏というより鶴があっているような感じがする。
大雲院は普段は非公開
大雲院は、普段は非公開。
昨年、洛陽天満宮二十五社巡拝の天満宮をめぐり、前出の火除天満宮が大雲院の鎮守社であるのを知り、移転後の大雲院も見てみたいと前に行ったが、総門も南門もしっかりと閉じられていた。
この日は「京の夏の旅」のイベントで、一般公開されるとあって行った。
他にも八坂神社の本殿が公開されていた。
総門
この日の総門は開いていた。
それでも柵があり、容易に中に入れそうにない。
入場口は総門ではなかった。
総門は東京から移築されたもので、旧宮家の門と伝えられている。(大雲院拝観パンフレットより)
南門
総門から、ねねの道を歩いて、南門へ。
入り口は南門だった。
帰る頃、南門では、ミストが噴霧されていた。入場した時はなかった。
日差しがそこそこある日、ミストの下の本堂の庇の影にある腰掛に少し腰かけて休憩した。
南門は四条寺から移築されたものである。
(大雲院拝観パンフレットより)
本堂
平安・鎌倉の折衷様式二階建本瓦葺。
鐘楼
豊臣秀頼が北野神社に寄進した鐘楼、祇園感神院(現・八坂神社)にあった室町時代延徳二年(1490年)在銘の梵鐘は、ともに維新後の神仏分離によって両社で無用とされていたものを、明治三年、島津家(宮崎県)が佐土原藩士の菩提を弔うために大雲院に寄進ものである。(大雲院拝観パンフレットより)
祇園閣
今日の目的は祇園閣。
最上階から見える景色が楽しみだった。
残念なのは、写真を撮ってはいけないとのこと。
最近のカメラは性能がいいので家の中を撮られていると近所から苦情があったからだそうだ。
上に上がって下を見ると西の方には民家が密集していた。
望遠カメラを使えば、家の中も撮れるかもしれない。
見える景色は、
知恩院の御影堂や山門、八坂の塔、京都タワーなどが見えた。
近くの高い建物というと八坂の塔だけなので、見晴らしはとてもよかった。
写真に収めたかった。
上には、ちゃんと寺の人がいたので、勝手に写真をとったりすることができない。
「ダメ」と言われたことをする子供でもない。
祇園閣を近くで見れただけでもよかった。
鶴から鶏か?
織田信長・織田信忠、石川五右衛門の墓所入り口
近くまで行くことはできなかった。
南門のミストの下で腰掛けて少し休憩して、
次へ向かった。
高台寺からも見えた。
離れて見るのもいい感じだ。
地図