五辻通り
五辻通りは大宮通りから始まって、松屋町通り、日暮通り、智恵子院通り、浄福寺通り、千本通り、七本松通り(新旧)を通り、上七軒通りと合流する。そこでは、北野天満宮の東を南北に通る御前通りで行き止まる。
このあたりは西陣を出て、京都の七野のひとつの「北野」であり、
五花街のひとつ上七軒。
五辻通りは、大宮通りからもっと東に伸びていて、同志社大学の中を通っていたと言う話がもある。
西陣を通る道、古い家並みも所々残っていた。
浄福寺通
五辻通りと浄福寺通りの交差点。右からの道が浄福寺通り。とても狭い道だ。
写真を撮るために立っているところ前に自動販売機があり、缶コーヒーを買って飲んだ。
五辻殿
五辻通りの名前にもなった五辻殿。
賃貸マンションの角に石碑と案内看板があった。
この賃貸マンションが、京町家風で、京都の街にマッチした外観だった。
五辻殿は
後鳥羽上皇(1180年~1239年)の院御所(退位した天皇の住まい)として元久元年(1204年)から使用された邸宅であり、「三長記」(藤原長兼の日記)には「五辻南・大宮西・櫛笥末くしげのすえ)」に位置していたとある。
造営者には上皇の生母、七条院殖子(1157年~1228年)の弟坊門信清(1159年~1216年であり、建仁3年(1203年)に播磨国を賜った際に造営した。(略)
この石標は、その跡を示すものであり。大正5年に五辻殿推定地(五辻浄福寺西入南側)建てられものだが、のちに嘉楽中学校を経て平成11年に限界値にいつされた。(京都市「五辻殿」案内版より抜粋)
先ほどの浄福寺りの写真を撮った。缶コーヒーを飲んだあたりから南側にあったのだろう。
五辻通りをさらに西へ
五辻通りをずっと歩くと、千本通りを過ぎて、
↓千本通りを渡った所で見かけた案内版。
↓千本通りとの交差点
七本松通り過ぎさらに歩いた。七本松通りは西陣の西の端とする見方もある。
京都市立翔鸞小学校
七本松通りを渡り少し歩くと小学校があった。
京都市立翔鸞小学校。
この学校の門の手書きの看板が目についた。近寄ってみた。年季の経っている木の看板が門柱に設置されていた。
書かれてたのは、
「翔鸞小学校創立百五十ニ周年」と読めた。一部掠れ少し読みにくいところがあった。ぱっと見たとき「創」が「倒」に見え、ちょっと怖かった。
部首が同じ「りっとう」で左が「にんべん」の「イ」に見えた。そうなると「創」でなく「倒」に見えてしまった。
この小学校は、1869年(明治2年)上京第三番組小学校として開校。1886年に翔鸞尋常小学校に改称。
152年と言うと、1869+152=2021
2021年のこと。今年。
にしては、この看板は、とても年数が経っているような看板だ。
Googleマップでこの学校の写真を見ると、7ヶ月前の写真は151年だった。年数は毎年書き換えられているようだ。来年は153年になっているのだろう。
そう、
この学校の名前なんて読むのか?
翔鸞の読み方は「しょうらん」。このように難しい名前がつくには何かこの「翔鸞」と関係あるのか?
「翔鸞」と言うと翔鸞楼と言うとのが平安京の大内裏にあったようだ。
「平安京大内裏の八省院の四楼の一。応天門外の西南方に突き出た楼。」
応天門は朱雀門の一つ内側の門。その門の南西角と言えば、千本丸太町の西ぐらいの位置になるのではないか。この小学校のあるところとは、ずいぶんと離れている。
この小学校とどのような関係があるのか不明。
上七軒
翔鸞小学校前を通り過ぎ、少し歩くと、北野天満宮前の上七軒通りとの合流点が見えて来る。
北野天満宮に行き当たる。東門の横を南北に通る御前通で五辻通りは終点。
↓北野天満宮東門
南東からは、上七軒通りが北野天満宮の東門に向けて上がってきて、五辻通りと御前通りとの交差点手前で五辻通りと合流する。
↓上七軒通
その合流点は広場のようになっている。ゆるく南に傾斜したような感じだ。北野天満宮の東門からみると、広く、少し傾ているかなという感じがあって、空間のふくらみようなもの感じた。
左から五辻通り、右から上七軒通り
横断歩道手前、右から左の道は御前通り。
天神川(紙屋川)
京都駅の壁面に映った京都タワー
北野天満宮近くからからバスで京都駅へ。
京都駅の壁は鏡面になっていて、壁には空が映っているのを見かけた。
バスで京都機に着いたとき、京都駅の壁面に京都タワーが映っているのが見えた。
京都タワーの展望台が見えるポイントはあるだろうかと、バスを降りて京都駅前を歩いた。
バスロータリーを過ぎてバス停が並ぶ京都駅へ続く広い歩道をこえたあたりで京都タワーの展望所が見るポイントがあった。
9月25日に京都に行った時のこと、だいぶん回数を重ねてしまった。
京都は、歩くと何か興味をそそるものに行きあたることが多い。
フラット行っても、歩けば、何かがあるかも。